水の底からの招き
今年の夏も、例年通り実家に帰省した。都会の喧騒から離れた、山と田んぼに囲まれた小さな集落。ここへ戻ると、いつも時間がゆっくりと流れるような気がする。だが、この夏は違った。私の心臓は、いつも冷たい水に浸されているような、奇妙な感覚に襲われ続けたのだ。
実家は築百年近い古民家で、裏手には小さな森があり、その奥には「淵」と呼ばれる、決して深くないが、言い伝えの多い古池がある。子供の頃は、そこへ近づくことさえ固く禁じられていた。お盆の時期には、祖母が必ず淵の方角に向かって手を合わせ、何かを呟いていたのを覚えている。
帰省して数日、私は妙な夢を見るようになった。いつも同じ夢だ。暗い水の中を、誰かに手を取られて沈んでいく。水はひどく冷たく、体中の熱を奪っていくのに、不思議と苦しくはない。ただ、どこか懐かしいような、それでいて深い悲しみを帯びた眼差しが、水面に揺らめく光の向こうから、私をじっと見つめている。目覚めると、全身が汗ばんでいるのに、肌は芯から冷え切っていた。
そして、夢だけでなく、現実にも異変が始まった。
最初は、気のせいだと思った。夜中にふと目が覚めると、どこからか「チャプ、チャプ」と、水が揺れるような微かな音が聞こえるのだ。古い家だから、屋根裏の雨漏りか、水道管の音か、と最初は無視していた。しかし、日が経つにつれてその音ははっきりとし、まるで家の中を誰かが濡れた足で歩いているかのように、部屋から部屋へと移動しているのが分かるようになった。
ある晩、耐えきれずに私は布団を抜け出した。時計を見ると、丑三つ時を少し過ぎた頃。家の中は真っ暗で、エアコンの風も止まり、ひんやりとした静寂に包まれていた。その中で、ただ一つ、廊下の奥から聞こえてくる水音が、異様に大きく響く。「チャプ、チャプ……、チャプ、チャプ……」。音は、仏間の方から聞こえているようだ。
懐中電灯を手に、私は恐る恐る仏間へ向かった。障子をそっと開けると、線香の香りが微かに漂ってくる。音は止まっていた。
「気のせいか……」
安堵しかけたその時、部屋の隅にある古い箪笥の足元が、うっすらと濡れているのが見えた。懐中電灯の光を近づけると、それは紛れもない水たまりだった。床板の木目が、水を吸って黒ずんでいる。そして、その水たまりから、さらに奥の、普段は開けない物置へと、微かに湿った足跡が続いていた。
心臓が大きく跳ねた。何かが、いる。
震える手で物置の引き戸に触れると、冷たい水滴のようなものが指先に触れた。戸を開けると、中から湿気と、泥と、そしてどこか生臭いような、澱んだ水の匂いが押し寄せた。
物置の奥には、昔、水を貯めていたらしい大きな木桶が置かれていた。埃をかぶり、ひび割れた古い桶だ。その中に、不自然なほど澄んだ水が、満々とたたえられているのが見えた。まるで、つい先ほど誰かが満たしたかのように。
そして、その水面をじっと見つめていると、薄暗闇の中で、水面に何かの影が揺らめいているのが見えた。それは、人の顔のようでもあり、しかし、その奥から、幾つもの小さな、光る点のようなものが、私をじっと見つめているようだった。まるで、水の中に無数の目があるかのように。
私は、全身の血の気が引くのを感じた。
「お兄ちゃん、何してるの?」
背後から、妹の声がした。私は弾かれたように振り返ったが、そこには何もいなかった。
「……え?」
妹は眠たげな目で私を見つめていた。「何って、物置開けて、変な匂いしてるよ?早く寝なよ」
私が慌てて物置の中を指差したが、妹は不思議そうに首を傾げるだけだった。
「何も変じゃないよ、いつもの桶じゃない。水も入ってないし」
再び物置の中を見ると、あの満ちていたはずの水は消え、桶は乾いたままであった。水たまりも、足跡も、何もかもが、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せていた。
ただ、私だけが、あの生臭い、冷たい水の匂いを、肌で感じていた。
お盆が近づき、親戚一同が集まった。祖母はいつもより念入りに仏壇の掃除をし、先祖の位牌を拭いていた。
「健太、あんたもこれ、手伝いなさい」
仏壇の奥に隠されていた古い掛け軸を祖母が取り出した。それは、幼い子供が描かれた水墨画だった。
「これはね、昔、この家で生まれた子だよ。残念ながら、あの淵で遊んでてね…」
祖母は言葉を濁したが、その意味を私は悟った。あの、私が夢で見た、水に沈む感覚。あの水面に揺らめく眼差し。
そして、祖母は続けた。「毎年お盆には、あの子も帰ってくるんだよ。水の気配を感じたら、そっと手を合わせてやるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に悪寒が走った。あの水音、あの冷たい水。それは、あの子が帰ってきていた証拠だったのか。
私は、恐ろしいことに気づいてしまった。あの水は、私を、淵へと誘っているのだ。あの水の中に、私を、連れていこうとしているのだ。
その夜、私は、自分の部屋の天井から、水が滴るような音を聞いた。そして、枕元には、微かに湿った、小さな手形が残されていた。
夏の夜、私の耳元で囁くように、「チャプ、チャプ…」と、水音が響く。それは、あの子の足音なのか、それとも、私を呼ぶ、淵の水の音なのか。
私は今も、この身に纏わりつく水の冷気と、水底から見つめる無数の目に怯えながら、夏の終わりを待っている。
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**実際にあった出来事**
日本には古くから、水にまつわる怪談や信仰が数多く存在します。特に夏場は、水難事故が多発する時期であり、お盆の時期と重なることから、水難で亡くなった人の霊がこの世に戻ってくると信じられてきました。
* **水難事故と霊現象**: 日本各地の河川や湖沼には、「〇〇淵」「〇〇沼」といった、特定の場所で水難事故が多発する「魔のスポット」が存在します。こうした場所には、古くから「水神様の祟り」や「亡くなった人の霊が生きている人を引きずり込む」といった言い伝えが残されています。実際に、同じ場所で繰り返し事故が起こるケースも少なくありません。
* **水子地蔵と供養**: 水子地蔵は、流産や死産、あるいは人工妊娠中絶によって亡くなった胎児や乳児の霊(水子)を供養するために祀られる地蔵菩薩です。水子は成仏できずに浮遊していると考えられ、特に水辺で亡くなった子供の霊は、生者に取り憑き、自らの境遇を訴えたり、仲間を求めたりするという民間信仰があります。物語に出てくる「淵で亡くなった子」も、このような信仰と結びついていると言えるでしょう。
* **家の中の異変**: 実際に、古い家屋や水回りにまつわる心霊現象は多く報告されています。「水滴の音」「異臭」「特定の場所の湿気」などが挙げられることがあります。科学的に説明できない「漏水のない水たまり」や「突然の結露」などが報告されることもあり、これらはしばしば、過去の出来事やそこに住んでいた人々の念と結びつけて語られます。
* **夢の中の体験**: 夢の中で水にまつわる恐ろしい体験(溺れる、引きずり込まれるなど)をするという報告も多く、特に水難事故を経験した人や、水辺での不幸な出来事を知っている人が見る傾向があると言われています。
科学的な根拠に乏しいものが多いですが、人々の間で語り継がれ、体験談として共有されることで、夏特有の霊的な恐怖感をかきたてる一因となっています。