夜哭く旧道トンネル
夏のある蒸し暑い夜、私は友人の達也の誘いで、福岡県のある山奥にある旧道トンネルへと車を走らせた。地元では「夜鳴きトンネル」と呼ばれ、肝試めしの名所として有名な場所だ。周囲に街灯はなく、長いトンネルの入口は不気味な影を落としていた。
トンネルに近づくにつれ、車内へひんやりとした空気が流れ込んできた。真夏なのに、エアコンを切っていても冷気を感じるほどだ。私はいつもならば楽しげに喋るはずの達也が、黙りこくってハンドルを握っているのに気づき、少しだけ緊張した。
「着いたぞ」
達也はそう言って車を降りると、無造作に懐中電灯を取り出した。私も後につづき、トンネルの口へと歩み寄る。コンクリート壁はひび割れ、所々(ところどころ)に赤黒く染まったシミが浮き出ている。湿った風が漂い、肌にまとわりつく。
古い噂によれば、このトンネルを夜中に通り抜けると、頭上から低い声のすすり泣きが聞こえるという。また、奥へ進むと血塗られた手形が壁に浮かび上がってくるとも…。
達也は私を先に行かせるように促したが、せめて一緒に歩いて欲しいと伝えると、彼も少し躊躇いながらも私の隣を歩き出した。トンネルの中は照らすものが懐中電灯だけなので、そこだけ怪しく光る。ふと何かに踏まれたような感覚がして足元を見ると、そこには古びた黒い布のようなものが湿った地面に転がっていた。何かの衣服だろうか、と嫌な予感を覚えながら先へと進む。
しばらく奥へ進むと、急に達也が足を止めた。顔色が悪い。声をかけようとしたそのとき、不意にトンネルの天井から声が降ってきた。
「たす…けて…」
女とも男ともつかない、かすれた声。確かに耳元ではなく、頭上から降ってくる。心臓が凍りつきそうな恐怖に捕らえられながらも、私は暗闇の天井を懐中電灯で照らした。しかし、その範囲には何もいない。だが、達也はさらなる異常を感じたのか後ずさりし始めた。
「ああ…あれ…」
達也の声が震える。その視線の先、トンネルの壁に赤黒い人影が貼りついていた。うずくまるような姿勢で、顔を上げてこちらを見つめている…。照らした瞬間、その“人影”は遠のくように壁の奥へ吸い込まれたかと思うとスッと消えた。何だったのか、理解できないまま私も達也も悲鳴を上げ、踵を返して駆け戻った。
その夜は、興味本位で来るべきところではないと痛感させられた。車に乗り込んでからも、達也は何度も「誰かがまだ乗ってきてる…」と振り返り、バックミラーを気にし続けた。私も正直、それがただの気のせいだと思えなかった。トンネルの入口を離れた後も、車内に何か得体の知れない視線を感じたからだ。
帰宅後、達也は家族の前で突然錯乱したという。私は慌てて翌日様子を見に行ったが、彼は「誰かが夜中にベッド脇まで立っている」とうわごとのように繰り返した。そして一週間後、彼は疲労困憊のまま実家を離れ、別の場所へ転居してしまった。それ以降、連絡はあまり取れていない。
あの夜、トンネルで目撃した奇妙な影は、本当に亡霊だったのだろうか。今でもその声音と、張りついたような人影の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
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■実際にあったできごと
福岡県宮若市にある旧犬鳴トンネル周辺では、1988年に実際に少年が暴行を受けた末に焼殺されるという痛ましい事件が起きています。この事件がきっかけで、その場所は「呪われたトンネル」「肝試めしスポット」などと呼ばれるようになり、さまざまな怪奇現象の噂が絶えないと言われています。実際に立ち入り禁止区域となっている場所もあるため、軽い気持ちで近づくのは非常に危険です。被害者や遺族の方々への配慮のためにも、このエリアを興味本位で訪れることは決しておすすめできません。