終夜の慟哭
八月の終わり、都心ではまだ夏の熱気が残る頃だった。しかし私たちは夜も更けた時間に、まるで秋の冷気が忍び寄るような薄暗い山道を歩いていた。東京・八王子市にある「八王子城跡」。かつては豊臣方の軍勢に攻め落とされ、多くの犠牲者が出たと伝えられている場所だ。地元では、夜更けに足を踏み入れるのは危険だと言い伝えがある。私と友人の瑞樹、そして後輩の志保と亮太の四人は、何の好奇心かその場所を訪れてしまった。
照らすものは携帯の懐中電灯程度。闇に沈む山道を進むにつれ、肌にまとわりつく湿った空気がやけに冷たく感じる。あたりは虫の声がかすかに聞こえる程度で、時折逆巻く風が落ち葉を舞い上げる。志保は心細そうに私の腕を掴んでいた。
廃れた石段を越えてさらに奥へと進んでいく。城跡の本丸跡付近には朽ちかけた祠があり、そこだけ闇の中で異様な存在感を放っている。里に伝わる話では、夜中にこの祠へ参拝すると、どこからともなく「落ち武者のすすり泣き」が聞こえてくるのだという。
そうして四人で怯えながらも祠の前に立ったとき、不意に瑞樹がつぶやいた。
「…聞こえる」
最初は聞き間違いかと思った。しかし私も耳を澄ますと、ずるずると何かを引きずるような音が風に乗って微かに届いてくる。まるで濡れた衣服を岩肌の上でこすり、そのままどこかへ引きずっていくような、不快で湿り気を帯びた音。それは次第に近くなってきた。
すると祠の後ろの木々(きぎ)の間に、白っぽい着物のようなものをまとった女の姿が、かすかに見えた気がした。私は目を疑い、隣の亮太に合図を送るが、彼は息を飲んだまま動けない。そこにいたのは、確かに勝気な軍勢に追いつめられたのか、うなだれているようにも、笑っているようにも見える女だった。だが、その顔立ちは月明かりの下でもやけにぼんやりとしている。こちらを見ているのか、どこか遠くを見ているのか、その視線は定かではない。
「戻ろう」
志保がそれだけを声にならないほどの小さな声で言う。私も同感だった。これ以上ここに留まれば、何か良からぬものを見てしまいそうだった。あの影は過去に取り残された亡霊なのか。それとも私たちの心のうちにある恐怖が生み出した幻だったのか。確かめる勇気はなかった。足早に引き返し、息を切らしながら嵯峨の坂を駆け下りた。
それからというもの、奇妙なほど私たち四人の間ではこの夜の出来事について深く語られることはなかった。まるで「なかったこと」にしたい、そんな無言の同意があるかのように。それでも思い出すたび、あの微かなすすり泣きと、濡れた石段を這うような音が耳にこびりついて離れない。そして時折、夜の静けさの中でふと息を殺すと、またあの音が聞こえてくるような気がして、背筋が凍りつくのだ。
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■実際にあったできごと
八王子城は1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家らの軍勢によってわずか半日で落城したと伝えられています。その際、領主や城兵のみならず、逃げ惑う多くの女性や子どもたちも犠牲となったとされ、大量殺戮が行われたとも言われています。今でも夜間には落武者の霊や女の泣き声などの怪奇な目撃談が多くあり、心霊スポットとして知られている場所です。歴史の悲劇が刻まれた地だからこそ、その場に残る無念の思いを軽んじて訪れると、思わぬ禍いを招くかもしれないと噂されています。