帰らざる堤の灯-つつみのひ-
一
八月六日、私は岡山県倉敷市真備町の旧・小田川堤防跡に立っていた。夜十一時。草むらから蝉の残骸がか細く鳴き、湿った川風がカメラのウインドジャマーを揺らす。
私は災害検証番組を制作するディレクター・川岸悠斗(三十五歳)。四年前、この地を襲った西日本豪雨で取材に入り、浸水住宅の窓から「助けて」と叫ぶ女性を撮りながら救えなかった――その一枚の静止画が、いまも胸を焼く。
地元消防団の知人・白神に連絡すると、「今年は水が逆流する日に気をつけろ」とだけ言った。冗談のつもりで深夜に潜り込んだ私は、川面に異変を見た。
二
午前零時を回った瞬間、堤跡の下で水が逆流し始めた。上流から下るはずの流れが、闇の奥へ吸い込まれる。強い雨は降っていない。私は三脚を据え、赤外線カメラを回した。
0:08。足首に冷たい膜が触れる。川面が靴底を撫で、引くたびにぬるりと泥の匂いを残す。その時、堤の向こうで家屋の扉を叩く音が響いた。
「こんどは 大丈夫?」
幼い声。振り向くと、河川敷の真ん中に小さな女の子が立っている。黄色いランドセルが水に沈み、肩まで泥が付いても白ワンピースだけは乾いている。
三
私は声をかけようとしたが、喉が締まった。女の子は私のレンズをのぞき込み、口を開閉させる。
「イーローイ…が…」
空耳かと思ったが、ヘッドホンから同じ音節が逆再生のように擦れる。焦点を合わせると、ランドセルの反射板に逆さ文字で「140E」と映っている。豪雨当夜、私が撮った写真のファイル名だ。
女の子の背後、闇が裂けるように複数の影が浮かんだ。シーツを巻いた老人、濡れたエプロンの母親、水が滴る制服姿の高校生――誰もが胸に家の表札を貼り、口を縫ったように閉じている。
0:11。
私は思わず後退。しかし足が抜けない。見るとコンクリの割れ目から無数の指先が伸び、私の靴紐を握っている。泥と藻に塗れた手は子どもほど小さい。片足を引きちぎる勢いで振り払った瞬間、水音が止み、辺りが干潮のように静まった。
四
女の子が手を上げると、影たちは川の中へ列を作り、沈みながらも歩いた。私の胸ポケットのICレコーダーが熱を帯び、再生ボタンが勝手に押される。
ピー……
ホワイトノイズに交じり、あの夜の無線が蘇る。
「こちら○○団本部。屋根上に取り残し五名――」
途中で切れ、代わりに子どもの歌声がかぶる。
「せーんろは つづくーよ どーこまでも」
ランドセルの子が川の中央で振り返り、声もなく笑った。歯の間から黒い水が滴り、水面は再び逆流した。影も子どもも波間に溶け、堤跡には私ひとり。
時計は0:15。次の瞬間、白い閃光。頭上で無人ドローンがサーチライトを当てていた。操縦者は白神だ。彼は拡声器で怒鳴る。
「川岸! そこは決壊線の真上だ!」
ライトが照らす川面は正常に流れ、痕跡は一切なかった。ただ私の靴紐だけが泥で硬直し、カメラのレンズには濁った手形が残っていた。
五
翌朝、録画を確認した。0:08〜0:15の映像は真っ黒だが、波形モニターにだけ白い縦線が出る。反転して重ねると数字になる。
07 06
西日本豪雨で真備町が水没した日付。映像はそこだけ保存不能で、再生を閉じるたびPCがフリーズする。仕方なく静止画を書き出そうとしたら、フォルダに見覚えのないファイルが生成された。
140E.jpg――四年前のあの一枚。開くと、屋根の上で助けを呼ぶ影の中に、ランドセルの女の子だけがこちらを向いていた。
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【実際にあったできごと】
・2018年7月6日深夜から7日にかけ、梅雨前線停滞による「西日本豪雨」が岡山県倉敷市真備町を襲い、小田川と支流の堤防が決壊。最大約5メートルの浸水が発生し、町域の約3割が水没。
・真備町での死者は51人、その半数以上が自宅での溺死。高齢者の犠牲が多かったが、学童も被災した。
・現在、決壊箇所はかさ上げ工事が完了し、堤防跡地には慰霊碑と水害伝承施設が建設中。毎年7月6日〜7日に追悼行事が行われている。