火の声の峠
一
八月十三日、長崎県島原半島。夜十時でも、山腹の空気は硫黄と湿りを混ぜたぬるい湯気のようだった。私はローカル局のディレクター・高宮謙(三十三歳)。九〇年代初頭に起きた雲仙普賢岳の噴火災害から三十年を機に、深夜の火山観測路を撮るよう命じられた。
被災者取材を終えた私に、地元ガイドの松永宏志(五十八)がこう助言した。
「旧・火砕流見学路は、盆の夜だけ行かん方がよか。火の声が返ってくるけん」
しかし素材が足りない。私は赤外線カメラを抱え、噴火口を臨む峠道へ向かった。
二
十時半、街灯のない林道に三脚を立てた。雲はなく月が低い。耳を澄ますと、かすかなゴロゴロという地鳴りが山の裏側で脈を打つ。ドローンを飛ばす許可は得ている。私は離陸させ、暗闇へ送り込んだ。
高度百メートル。一瞬、モニターに白い稲妻のような線が走り、次のフレームで霧散した。機体に異常なし。私は気のせいと判断し撮影を続けた。
十時四十三分。
林道の先で熱気がふくらみ、空気が揺らぐ。赤外線スコープをのぞくと、黒いシルエットが点々と浮かぶ。背の高い影、屈んだ影、三脚らしき影。肩に大きなバッグを提げた人型も見える。
報道陣――そう思った。だが影は肉眼では見えない。私はヘッドホンを上げ、指向性マイクを向ける。
……カメラ回した!……避難します……
複数の声がかぶさる。風のざわめきに似ているが、言葉ははっきり日本語だ。私は思わず「どちらの社ですか」と呼びかけた。返事はなく、影は山側へ歩き出す。
三
十時五十七分。
山肌を、火の粉のような赤い粒が滑った。ドローン映像に映る温度分布が突然真紅に染まる。警告アラームが鳴り、私は機体を即時帰還させた。
そのとき、足元の砂利がぱちぱちと音を立て跳ねた。熱風が逆巻く。林道を隔てた崖下で、真っ黒な煙が這い上がり始めた。火砕流の残像――だが現在、活動度は低いはず。
煙は音もなく迫り、私は三脚を捨てて退いた。と、その中で白いライトが揺れているのに気づく。ハロゲンの取材用スポットライトだ。煙の向こうから三脚を抱えた男が現れた。肩章に「PRESS」とある。
男は煤と泥にまみれ、目だけが真っ白に濁っていた。私にライトを向けるでもなく、ゆっくり首を傾げる。胸のストラップでぶら下がるカメラは、1991年型のテープレコーダー付きVHSカム。そのファインダーは割れて内部が見え、赤いランプだけが点灯している。
私は後ずさるが、熱が背中を焼く。振り向くと逃げ道を塞ぐように黒煙が広がり、その中をさらに多くの影が歩いていた。ヘルメット姿の学者、消防団員、防災服の町職員――みな噴き出した土石と一緒に映像のノイズのように揺れている。
四
十一時三分。
ハロゲンを持つ男が口を開いた。声は喉を通らず、私の左耳に直接響く。
「源泉温度…九百度……逃げろ」
それは1991年当時、火山観測所が叫びながら無線で流した定期報の切れ端と同じ言い回し。私は半狂乱で身を翻し、谷側の斜面へ転がり落ちた。
地面が揺れ、石が割れ、熱風が背後の木々を枯らす音がする。しかし炎も煙も匂いもない。
ふと、耳もとで微かな拍手が起きた。遠くの野球場で観客が一斉に手を叩くような乱れの無いリズム。ドローンのモニターが砂嵐になり、その下端で白い点滅が並び文字を形づくる。
6・3
災害が最悪の被害を出した年と月の数字。
五
十一時十分。
気づくと私は峠道の登山口まで戻っていた。崖下は静まり、林道にはカメラも三脚も残っていない。ただ、私の肩にかけていた機材バッグが重くなっていた。開くと、年代物のVHSテープが一本。白いラベルに赤マジックで「火の神 最終カット」と記されている。
ホテルに戻り、業務用デッキで再生した。
テープ前半は黒。十二分五十三秒後、突然映る。燃え上がる斜面を前に、防災服の隊員が振り向き、カメラへ叫ぶ。音声は無いが唇がこう動く。
「帰れ!」
次のフレームで全景は白に飛び、そこでテープは切れる。最後に秒間一フレームだけ、私が今夜捨てた三脚が映っていた。
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【実際にあったできごと】
・1991年6月3日、長崎県雲仙岳(普賢岳)で大規模な火砕流が発生。取材中の報道陣や消防団員、火山学者ら計44名が巻き込まれ死亡した。
・以後も同年6〜8月にかけて火砕流が続き、島原市・深江町で約300戸が焼失。被災地には「火砕流犠牲者慰霊之碑」が建立され、毎年6月3日に追悼式が行われている。