「境界線のランプが点いたら」
広野町の夜はひどく静かだった。駅前の街灯は二本とも折れたまま、遠くで海鳴りの低音がくぐもっているだけだ。三月十日、震災から十二年目を翌日に控え、NPOの映像アーカイヴを請け負う私は、警戒区域ギリギリの旧民家へ機材を運び込んだ。目的は、波にさらわれた写真や8ミリテープを回収し、デジタル化すること。原則は日帰りだが、今回は依頼主から「夜の音も残してほしい」と頼まれた。
ガイガーカウンターは玄関で毎時0・23マイクロシーベルトを示す。再立入りが許可された数値のはずだが、暗闇では桁がずれるほど不安になる。
居間の戸袋を漁ると、8ミリだけでなくDATカセットやMDディスクがぎっしり出て来た。電源の落ちた町でポータブル再生機を回すわけにもいかず、私はラップトップとバッテリーを床に並べた。
雨戸が鳴り、かすかな海風が入る。ヘッドホンを当てた瞬間、高い周波数の金属音が耳をつんざいた。津波の衝撃で壊れた録音かと思ったが、ノイズの背後に女の子の声が混じる。
「みんな、屋上に来てるよ」
背筋が凍った。2011年3月11日に校舎三階へ避難したまま流された、大川小学校の記録映像で最後に聞こえたのと酷似した声色だった。だがテープのラベルは〈’04 夏祭り〉と走り書きされている。
ヘッドホンを外すと、今度は家の外で「カラン」と瓶が割れるような音。窓からのぞくと、県道沿いの信号が唐突に青へ変わった。復旧工事で通電テストをしているのかもしれない。だが人も車もいない十字路で、青は数秒後に赤へ、そして青へ、不規則に点滅を繰り返した。
私はふと、2015年に報道された南相馬の『ゴースト交差点』を思い出した。誰も通らないはずの深夜、監視カメラに白い人影が映るたび信号が故障するという。メーカーが調べても原因は分からず、制御盤だけが熱を帯びていたという記事――それとまったく同じ色の揺らぎが、目の前で起きていた。
機材をまとめて帰ろう、と玄関に戻ったとき、床のガイガーカウンターが高音を上げた。0・23のはずが、3・90、6・40と跳ね上がり、最後にはHHHのエラー表示。家の外で何かが火花を散らすような閃光が走り、闇が一瞬だけ昼のように白くなった。
それは、事故直後の福島第一で撮影された映像で見た、格納容器のベント弁から放たれる「青白いチェレンコフ光」に似ていた。もちろん、ここは二十キロ以上離れている。そんな光が見えるはずがない。
耳の奥で、また女の子の声が再生された。
「来ちゃだめだよ、線が見えない人は戻れない」
私は床に散らばったテープを掴むと、足元で黒い濡れた穴に触れた。見ると、それは畳ではなく、三角に裂けた闇だった。穴の底に、水底のようにうごめく白い掌が数え切れないほど重なっている。震災直後のドローン映像で、津波が去った海面に浮かぶ無数の手袋を「手のようだ」と実況が怯えた。あれとまったく同じ形。
掌たちは、私の靴裏を撫でながら静かにこう示した――玄関を越えるな、と。
突然、窓ガラスが震え、サイレンが遠くで唸った。記憶の底に沈んでいた緊急地震速報のチャイムが甦る。2016年1月、誤報システムのバグで鳴り響いたあの夜、東京でも数千人が線路に飛び降り、駅は軽いパニックになった。だが今日は気象庁からの通知などない。
私は意を決して穴を跨ぎ、土間に飛び降りると、扉を蹴るように開けた。外にはあの不気味な交差点があるはずだった。ところが目の前に現れたのは、波を被り変形した防潮堤の内側――最悪の津波到達地点と記された、高さ八・七メートルのポールだった。家の玄関は県道と海岸線のあいだ二キロに位置している。時間か空間のどちらかが、あるいは両方が、ねじれている。
ポールの足元でガイガーカウンターが再び0・23μSv/hに戻る。機械ごしに、もう一度あの声が鳴った。
「0・23は罠だよ。帰ってきても、まだ向こう側だから」
振り返ると、家の窓に少女の影が映っていた。白いヘルメット、赤いランドセル。津波避難訓練の定番装備だった。
私は影に背を向け、ポールの脇に埋もれていた非常用電話ボックスへ駆け寄った。受話器のコードは千切れている。それでも耳に当てると、潮騒の向こうでナンバー放送のような数字が読み上げられる。
「3、11、3、11、3、11」
途切れない反復。BGMのようなガイガー音。
その瞬間、防潮堤の向こうから、十二年前と同じ重い地鳴りが起こった。海面が引き、干上がった砂の斜面を、闇色の水壁が盛り上がる。月明かりを塞ぐほどの高さ。逃げ場を探す私の足首に、さきほどの白い掌が再び絡みついた。穴を越えて来たのか、それとも町じゅうに湧いているのか。
耳元で少女が叫ぶ。
「線を見て! 赤い線より内側へ!」
思わず空を見上げる。すると黒い夜空に赤いレーザーのような線が走っていた。原発事故後、航空測量で描かれたホットスポットの拡散図……それが現実の空気に焼き付くように、町を格子状に染めている。私は無我夢中で、もっとも薄く見える放射線の“身”をくぐり抜けた。
気づくと足裏はアスファルトではなく、JR常磐線の上りホームだった。真新しいベンチ、復旧後のLED表示。時計は午後十一時九分。終電の車両が静かにブレーキをかけ、ドアが開いた。
車内に人影はなく、弱々しい蛍光灯が揺れている。だが空調のノイズの奥で、まだ少女の声がする。
「乗っちゃだめ、そこは戻る線がない」
ドアの閉まりかける縁に、私は躊躇した。ホーム側の鏡に映る自分の背後、白いヘルメットの少女が首を振る。
つづけて車内の案内放送が流れた。男とも女ともつかぬ電子合成音が、行き先を告げずにひと言。
「まもなく十二年前に到着します」
私はついに足を引き、閉じるドアをホームの闇へ見送った。走り去る列車の赤ランプが、線量計のアラームと共鳴しながら遠ざかる。
静寂が戻ると、駅舎の屋根からポタリと雫が落ち、ヘルメットの少女は影ごと消えた。ガイガーカウンターは0・05μSv/h――災害前と同じ、限りなく低い数字を示す。
だが私は理解していた。あの列車に乗れば十二年前に「到着」できる代わりに、帰路の線は閉ざされる。逆に、ここに残れば、いつ終わるとも知れぬ境界線の町を彷徨うことになる。
たったいまも、ホームの端に据えられた非常電話が鳴っている。受話器の向こうで、あの数字のコーラスが蜃気楼のように揺れている。
「3、11、3、11、3、11――」
私は息を吸い込み、赤い線の残像が浮かぶ夜空を見上げた。どちらへ歩いても、風向きひとつで境界は変わる。線が見えない人間は、きっと戻れないままなのだ。
(了)
――補足――
本編は創作ですが、挿入された出来事や用語は実在します。
・2011年3月11日の東日本大震災と津波、および福島第一原発事故。
・南相馬市で報道された「ゴースト交差点」の信号機故障。
・放射線量0・23μSv/hが再立入り基準とされた「帰還困難区域」解除の指標。
・大川小学校の児童の避難行動を記録した実際の映像。
・チェレンコフ光、緊急地震速報の誤作動(2016年1月)。
以上の現実の断片が、境界線の町で交差する……そんな「もしも」の物語です。