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怖い話  作者: 健二
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逆流の盆灯籠-ぼんとうろう

 八月十二日、長崎市中島川なかしまがわ沿いの寺町通りは、夕立ちの名残で石畳がまだ黒く濡れていた。私は地方紙の写真部に勤める比嘉徹ひがとおる三十四歳。お盆の精霊流しを撮るために来たのだが、編集長から“もう一本、実話怪談の特集を出せ”と無茶を言われている。

 下見を終えてカメラを仕舞おうとしたとき、川向うの古い料亭の女将が声を掛けてきた。

「十二日の夜中だけは、この川辺に残らん方がよかですよ。雨が戻って来ますけん」

 雨が戻る? 女将はそれ以上語らず格子戸を閉めた。


 深夜零時前、精霊船の灯籠も消え、人通りが途切れた。私はアーチ型の眼鏡橋めがねばしのたもとで三脚を構える。川底は浅く、わずかに水が流れるだけだ。

 零時二分。上流で「ゴウン」と鈍い響き。ヘッドホン越しに河川敷の泥が擦れる音が混ざる。雲は見えず、雨もない。なのに匂いが変わった。濡れた畳、石鹸、炊き立ての米――生活の匂いが一気に川面から立ち上がる。


 零時六分。

 水面が逆三角に盛り上がり、下流へ向かうはずの流れが橋脚に逆戻りしてくる。カメラを向けると、水の鼓泡の中から白い提灯が浮き上がった。盆灯篭だ。しかし提灯紙は半分泥に溶け、墨字の戒名が判読できない。

 提灯の後ろに、人の肩ほどの黒い塊が続く。やがてそれは小さな家屋の屋根だった。畳、勉強机、洗濯機、白いタイルの浴槽……家財が渦を巻きながら逆流してくる。


 私は即座に連写を開始した。するとレンズ越しに人影が混ざる。浴衣姿の子ども、腕に赤ん坊を抱いた母親、作業着の父親。みな胸まで水に浸かりながら、家財にしがみつき、こちらへ向かって必死に手を伸ばす。

 シャッター音に合わせるように、少女の声がマイクへ割り込んだ。

「おとうさんに くつ とどけて」

 耳元で囁くのに、肉眼では少女の唇が動いていない。彼女は逆流に抗いながら、泥だらけの運動靴を両手で掲げていた。


 零時九分。川幅いっぱいに家財と人影が充満し、橋桁を揺さぶる水音が轟いた。私は危険を感じて退こうとしたが、石畳の隙間から冷たい水が噴き出し、靴底を吸い込む。

 視界の端、対岸の料亭の格子戸がわずかに開き、女将が線香を束にして投げ入れた。線香は水に浸かると不思議と消えず、紫煙を立てながら家財の上を流れる。その煙が人影の喉元を撫でると、一人、また一人と影が薄れ、やがて溶けるように消えた。


 零時十分、逆流は唐突に止まり、何もなかったように水位が下がった。残ったのは濡れた石畳と、私の足元に打ち上げられた片方の運動靴だけ。サイズは子ども用で、つま先に「ミキ」とひらがなで書かれている。


 翌朝、県立図書館の災害資料室で「長崎大水害」の新聞縮刷版をめくった。1982年7月23日未明、集中豪雨で中島川が氾濫し、流域で299人が亡くなった。被災写真には、瓦礫に埋もれた少女の遺体が父親に抱かれている一枚があった。足は片方だけ運動靴がない。名前欄に「三木美希みきみき」七歳。

 日付は七月だが、遺族が毎年、お盆の十二日に僧侶を招いて供養を続けていると記事にある。


 夜、ホテルで撮影データを確認した。連写の多くは露光オーバーで真っ白だった。わずかに残った一枚。逆流する川面に浮かぶ盆灯篭、その奥で少女が靴を掲げている。だがファインダー越しには見えなかった表情――確かに笑っていた。

 私は運動靴をタオルに包み、翌朝、料亭の門前にそっと置いた。格子戸は開かず、ただ線香の香が流れてきた。


――――――――――――――――――――――――――――

【実際にあったできごと】


・1982年7月23日早朝、長崎市を中心に1時間あたり187ミリという記録的豪雨が発生(長崎大水害)。中島川などが氾濫し、市内で299名が死亡。流域の家屋は濁流で押し流され、多くの児童も犠牲となった。

・被災後、眼鏡橋周辺では流された家財が逆流する現象を見たという証言がある。現在も7月23日前後とお盆には慰霊法要が行われる。

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