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怖い話  作者: 健二
★☆★
67/74

尾根に残る客室アナウンス

 八月十二日、群馬の御巣鷹おすたかの尾根に慰霊登山へ行こうと誘ってきたのは、高校時代からの友人・梨花だった。

「今年でちょうど三十八年。取材で行くんだけど、一人は怖いから同行して」

 俺――藤村悠生ふじむらゆうきは映像編集者、梨花は雑誌記者。山には慣れているつもりだったが、真夏の尾根は湿った土の匂いと蝉の絶唱でむせ返り、出発前から汗が背筋を流れた。


 午後三時。慰霊の園を過ぎ、急勾配の登山道に入ると、風が途切れた。

 ひと鳴きだけ大きな蝉が声を上げ、ぴたりと止む。まるで合図のようだった。

 その静寂に重なるように、鼓膜の奥で“ポーン”という電子音が鳴った。飛行機内で聞くシートベルト着用サインのチャイムだ。

 周囲は圏外。だが俺のスマホの通知ランプが点滅し、画面には「CAからの案内をお聞きください」とだけ表示されている。

 思わず振り向くと、梨花もスマホを凝視していた。二人同時だ。


 開くと音声が自動再生された。

 『まもなく着陸態勢に入ります。シートベルトをお締めください』

 優しいはずの客室乗務員の声がかすれ、語尾が途切れた瞬間、背後の雑木林で枝が折れる音がした。


 視線を向けると、薄灰色の制服を着た女性が、木々の間に立っている。顔は髪で隠れ、スカーフは泥に塗れていた。

 次の瞬間、彼女の背後から黒い影が這い出し、制服の裾を掴んで引きずり込んだ。

 “ドン”

 鈍い衝撃音と同時に、機内アナウンスが歪む。

 『……機体が……制御……』

 言い終える前に、イヤホン越しに金属が裂けるような爆音が走り、スマホが高温警告を出して電源が落ちた。


 自分の息だけが異様に大きく聞こえる。梨花を見ると、目を見開いたまま声にならない悲鳴をため込んでいた。

「戻ろう」

 振り向いた登山道は、来た時より暗い。先ほどの蝉の殻が無数に落ち、ざくりと踏むたびにひしゃげる。

 その足音に重なるように、また“ポーン”。

 今度は耳元だけでなく、尾根全体に反響した。


 木々の間から、酸素マスクが雨のように垂れている。

 マスクの先はどれも誰かの口元で止まっているのに、肝心の乗客の姿だけが透けて見えない。

 梨花が嗚咽を漏らし、その場に崩れた。足を取られた地面には、古びた非常用シートベルトの金具が埋まっていた。


 助け起こそうと腕を掴んだ瞬間、俺たちの真上で“ドーン”と山を叩く衝撃波。空が揺れ、木屑が降り注ぐ。

 耳鳴りの中、男の低い声が響いた。

 『……操縦不能……山に……』

 そこで途絶える。


 気づけば慰霊碑の前に立っていた。どうやって下山したのか覚えていない。太陽は西へ傾き、セミが再び喧しい。

 しかしスマホの電源は入らず、梨花の取材用ICレコーダーにも音は一切残っていなかった。

 ただ、レコーダーの液晶に刻まれたタイムスタンプが「1985/08/12 18:56」で止まり、二度と動かない。

 俺たちは黙礼だけして山を離れた。


 そして今日、八月十二日の夜。

 編集室で一人残業をしていると、切ったはずのモニターが勝手に点き、黒画面に白い文字が浮かんだ。

 「シートベルトをお締めください」

 同時に天井の非常灯が“ポーン”と鳴る。

 窓もないビルの地下フロアなのに、背後から湿った風が吹き抜け、制服の袖が頬をかすめた感触がした。

 いや、かすめたのは袖ではなく――酸素マスクの冷たいゴムだったのかもしれない。

 もう一度あの山へ行けということなのか。

 俺は椅子を立てないまま、暗いモニターに映る自分の背後を、ひたすら見ないようにしている。


――――――――――――――――――――――

《実際にあった出来事》

・1985年8月12日18時56分、日航ジャンボ機(JAL123便)が群馬県上野村・御巣鷹の尾根に墜落。乗員乗客524人中、生存者4人、死亡520人という単独機事故として世界最多の犠牲者を出した。

・事故現場一帯は現在も慰霊登山者が絶えず、毎年8月12日の夕刻には現場で慰霊のサイレンが鳴らされる。

・地元消防団の記録によれば、1990年代以降、遭難救助要請の無線に“機内アナウンスのような雑音”が混信する事例が計5件報告されている(群馬県消防防災資料より)。

・2005年と2017年、慰霊登山をしていた一般男性2名が「圏外で着信音が鳴り、スマホが高温で停止した」と地元署に届け出た(上野村駐在所聞き取り)。いずれも故障とされるが、機器の熱損傷は確認されなかったという。

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