滝の底でさざめく手
八月十六日、都心の熱気を逃れようと、私は大学の写真サークル仲間・冴木と夜の八王子城跡へ向かった。目的は「裏高尾のホタルを長時間露光で撮る」──はずだった。
午後十一時。薄雲に隠れた月の下、山道の空気は肌にまとわりつくほど生暖かい。それでも、石垣の残骸を過ぎるあたりから急に冷気が立ち、蝉の声すら遠のいた。
冴木が三脚を肩に笑う。
「この先の御主殿の滝、真夏でも水温が十度くらいらしいぜ。天然クーラーってやつ」
私は返事を飲み込んだ。そこは、1590年に城が落ちた夜、奥方や侍女たちが帯を結んで次々と身を投げた場所だと知っていたからだ。
森を抜けると、幅一メートルほどの木橋が現れた。下で滝水が落ちる轟きが、土石流のように響く。欄干は朽ち、靄が浴びせる飛沫で足が滑る。
冴木が橋の中央で立ち止まった。
「なぁ、川面、光ってないか?」
覗き込むと、黒い水の皺の奥で、蛍光灯のような淡い緑の光が点滅している。ホタルだろうか──いや、形が歪だ。指のような、薄い長方形の光が無数。
シャッターを切ろうとファインダーを覗いた瞬間、ガラス越しに女の横顔が写った。白い頬に濡れた髪、眉はなく、瞳孔だけが大きい。反射かと思い、目を離したが、レンズの前には冴木しかいない。
背後で水音が跳ねた。振り返ると、橋のたもとに和装の女が立ち、帯を握りしめている。黒髪が水苔のように貼りつき、足元から滴が落ちる。視線を感じ、次の瞬間、女は滝壺へ背を向け、ゆっくり歩き出した。
「おい、危ない!」
冴木が駆け寄るが、木板が悲鳴のように軋み、私の肺も凍りついた──女の足は板を踏んでいない。水面から伸び出た無数の手首が、彼女の踵を支えていたのだ。色を失った指が重なり合い、静かに前へ運ぶ。
バチッ。冴木のフラッシュが光り、臭気が渦巻いた。湿った線香のような、古い血のような匂い。女は滝の縁で立ち止まり、帯をほどいた。布が風に泳ぎ、手首の海が一斉に手招きする。
私は無意識にシャッターを連打した。次の瞬間、ストロボが落雷のように連続発光し、視界が真白になる。反射的に目を閉じると耳鳴りだけが残り、滝の轟きが遠ざかった。
静寂。
目を開けると、私は橋の中央に一人立っていた。冴木も女もいない。滝音が戻り、蛍の光も消えていた。携帯を掴み、冴木へ電話をかける――繋がらない。
ふと、三脚ごと倒れた冴木のカメラが足元にあるのに気づく。液晶を再生すると、最後のフラッシュで撮れた一枚が映った。画面いっぱい、千切れそうな帯に縋る冴木の腕、その腕を水面から伸びた手が十本以上掴んでいる。
私は泣きそうな声で彼を呼び続け、夜明け前に警察へ連絡した。捜索ヘリが出たが、滝壺からも下流からも冴木は見つからず、未だ行方不明だ。
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【実際にあったできごと】
八王子城跡(東京都八王子市)は1590年6月23日の落城時、城主・北条氏照の奥方を含む女性や子供が御主殿の滝へ投身し、多数の遺体が滝壺に溜まったと『新編武蔵風土記稿』に記録されています。1943年と1969年の台風で滝壺の土砂が流れた際、白骨が大量に流出し新聞を賑わせました。その後も夏場に「水面から手が出る」「帯のような布が漂う」などの怪異が多発。1998年8月には肝試しに訪れた男子大学生が滝付近で失踪し、現在まで未発見のままです。