旧犬鳴トンネル焼殺
盛夏。福岡県と佐賀県の県境、濃い緑の山あいを縫う旧道を、私は大学時代の友人・新井の運転で走っていた。湿った風がフロントガラスを曇らせ、カーエアコンの心許ない冷気がむしろ熱気を増幅しているようだった。
「犬鳴トンネル、もうすぐだ」
助手席の私は内ポケットのタオルで額をぬぐいながら、聞こえないふりをした。数年前に廃道化された旧犬鳴トンネルには、真夏でも冷気が吹き出すと学生のころ噂し合った。霊感ゼロの私でさえ背筋がひやりとする地名だ。
──カン、カン。
突然、規則的な金属音が車体底に伝わった。新井は眉をひそめて減速し、路肩に寄せた。峠道に街灯はなく、ヘッドライトだけが濡れたアスファルトを辛うじて照らす。
「何か巻き込んだか?」
車外に出ると、ムンとした森の匂いが気管にまとわりついた。見回しても何も落ちていない。私は後部タイヤを触り、異常がないのを確かめてから顔を上げた。
──カン。
今度は、真後ろの闇から音が跳ね返ってきた。振り向くと、数メートル先の路面に濡れた軍手が一組落ちていた。曲がった指先から滴が垂れ、アスファルトに円を描く。
「……あんなのさっきなかったよな」
新井の声が掠れる。私は乾いた唾をのみ、ごく自然に車へ戻ろうとした。が、運転席のドアが内側から“ガチャリ”とロックされた音がした。
先に乗ったはずの新井が、窓越しに蒼白い顔をこちらへ向けていた。口が動くが声にならない。私は助手席側へ駆け回りハンドルを叩いた。
「開けろ、新井!」
その瞬間、彼の頭が弾かれたように窓ガラスへぶつかり、頬に血がにじんだ。ほぼ同時に、車内の天井裏──サンルーフの金属板が何者かに引き裂かれるように“ギギギ”と浮き上がった。黒い手……いや、泥と煤が混ざったような腕がのぞき、爪で内装を剥いでいく。
私は凍りつきながら、濡れた軍手を思い出した。一歩退いたところで、ヘッドライトが不意に消え、森と車は漆黒に沈んだ。
暗闇で、新井が咽ぶような声をあげた。
「……熱い! やめろ、やめてくれ……!」
熱い? 夜気はむしろ肌寒いほどだ。だが彼は炎に包まれたかのように暴れ、シートを蹴り、首をひねり、やがて“ゴン”とダッシュボードにぶつけて動かなくなった。
私は足がすくみながらも、ドアノブを渾身で引いた。ロックは外れない。パニックで思わず拳を窓に打ちつけた瞬間──車内がぱっと明るくなった。ヘッドライトも室内灯も自然に点いた。その光の中で、サンルーフには何の異常も、黒い腕もなかった。
新井はシートにぐったり凭れ、汗と涙で顔を濡らしている。彼の瞳は焦点が合わず、ただ宙に怯え切っていた。
ドアは普通に開き、私は彼を半ば引き摺るようにして運転席から降ろした。背後の森で、さっきの“カン”という音が虫の声に溶けて遠ざかっていく。
──カン、カン、カン……。
列車のレールを叩くような一定の金属音だった。やがて闇の奥で消えると、蝉の絶叫だけが耳を引き裂いた。夏なのに、肌は氷水に浸かったように震えた。
私たちは車を捨て、来た道を走って山を下り、ふもとの交番へ駆け込んだ。事情を支離滅裂なまま伝えると、警官は顔を曇らせたが「今日は行けん」と渋った。代わりに別の若い巡査が「自分も気味が悪い」と言ってパトカーで同行してくれた。現場に戻ると車はそのままあり、ドアもサンルーフも損傷がなく、軍手も落ちていない。ただし運転席の床マットがぐっしょり濡れ、焦げたゴムの匂いが漂っていた。
翌朝、新井は高熱を出し、病院で「全身に軽度の火傷反応に似た炎症」があると診断された。彼は「トンネルの中にいた人影が、ニヤニヤ笑いながら俺の身体に火をつけた」と譫言を繰り返したが、警察の捜査では何の痕跡も証拠もなかった。
それ以来、新井は夜道を極端に恐れ、私は夏でも車にサンルーフを付けない。ただ、あのとき聞こえた“カン”という音が、遠い昔に封じられた怨嗟のリズムだった気がしてならない。
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【実際にあったできごと】
旧犬鳴トンネル(福岡県宮若市・旧道区間)は1988年12月、若い男性が複数の不良グループに拉致され、ガソリンをかけられ生きたまま焼殺されるという凶悪事件の現場となりました。トンネル近辺は霊的な噂が以前から絶えず、その事件以降「深夜に金属音が響く」「炎のような光が見える」などの怪異談が急増したと各種メディアで報じられています。