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怖い話  作者: 健二
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「十三階の雨」


 雨音を録るのは、音響デザイナーの川瀬裕子にとって半ば儀式のようなものだった。CMや映画に使う「本物の環境音」を集めるため、彼女はマイクとレコーダーを抱えて各地を歩く。二〇二三年六月の終わり、裕子が目を付けたのは、取り壊しが決まった東京・蒲田の古いビジネスホテルだった。外壁に無数のひびが走り、昇り降りするたび不安になる昔ながらのケージ型エレベーター。屋上の給水塔が雨粒をこぼす音が、低い金属音を帯びて独特だという噂を聞いたのだ。

 十三階建て――といっても客室は十二階までで、十三階は給水塔と物置があるだけ。管理人の老人は「もう誰も泊まっていませんよ」と言いながら鍵を渡してくれた。廃業した今、フロントは無人。水道も電気も最後の月末で止めるという。


 六月三十日、午後十一時過ぎ。空は今にも泣き出しそうな鉛色で、遠くに雷が光っていた。裕子はマイクを三脚に固定し、ヘッドホンを装着する。ヘッドホンの奥で、雨の前触れの風が給水塔を揺らす金属音とまじる。

 ――チリッ、チリチリッ。

 アースの甘い古い配線がこすれるノイズが混ざる。だが奇妙なのは、そのノイズがまるで「声」のように、ときおり言葉の切れ端を結ぶことだった。

 「……来ないで……」

 囁くように聞こえる。裕子は汗を拭い、ケーブルを点検した。断線はない。ふと、給水塔の暗がりに女の影が立っているように思えた。だが次の瞬間、稲光が空を裂き、影は塔の裏へ溶けた。


 機材を守るために急いで片付けようとしたそのとき、エレベーターが動く気配がした。ホテルにいるのは管理人と自分だけのはずだ。ヘッドホンの中で金属が削れる“ギギギ”という重たい音。裕子は身を固くした。

 十三階の扉が開いた。誰も降りてこない。

 やがてヘッドホン越しに落ち着いた女性の声が流れた。

 「ドアを閉めて、下に行かないと――」

 声はそこでぷつりと切れ、代わりに見知らぬ英語が続く。“Stay on thirteen.”(十三階にとどまれ)


 胸騒ぎを抱えたままエレベーターをのぞくと、箱の床には濡れた足跡が点々とついていた。裸足のようにも見える。ふと脳裏に浮かんだのは、二〇一三年、ロサンゼルスのホテル・セシルで起きたエリサ・ラム失踪事件。監視カメラに残った彼女は、何かと「会話」するように手を動かし、最後には屋上の給水タンクで遺体となって見つかった。澄んだ目でエレベーターの隅を覗き込み、逃げるように出ていく映像が世界中をざわつかせた。

 そして今、十三階の自分もまた、見えない誰かと二人きりの箱に乗り込もうとしている。

 「まさか、ね……」

 裕子は足跡を追い、エレベーターに入った。操作盤のランプは、十四、十五……存在しないはずの階が淡く点滅していた。


 箱が下り始めると同時に、ヘッドホンの奥で再び雨音がざわついた。ノイズの中から数字が浮かび上がる。

 「七、二、五、……九」

 低くくぐもった男の声が反復する。裕子は眉をひそめた。ロシアの短波“ナンバー局”UVB-76――いわゆるBuzzerの放送記録で、二〇一〇年に突如読み上げられた暗号と同じ並びだった。いったい誰が、なぜここで?

 思考を遮るように、床の足跡がぶわりと水滴を撒いた。頭上から水がしたたり落ち、肩に生温かい感触が広がる。給水塔の水か……。だが臭いが違う。鉄錆のような、けれどもっと甘い匂いが鼻をつく。


 扉は開かない。何階かも分からないまま揺れる箱の中で、裕子は息を殺した。突然、操作盤の非常停止ボタンが一人でに落ちた。

 「ギッ」

 点滅する照明の下、背後で濡れた布が床に落ちる音。振り向くと、そこには小さな和人形が転がっていた。長い黒髪が湿り、白木綿の着物も濡れている。

 裕子は凍り付いた。北海道・岩見沢の萬念寺に納められる「お菊人形」。戦後まもなく亡くなった少女の形見として家族が寺に預けた人形の髪が、年月とともに伸び続ける――その実物を、彼女は以前取材で見ていた。顔も着物もそっくりだ。

 人形の口から、濁った水が滴る。

 「オネエチャン、あけて」

 幼い声と同時に、扉が震えた。


 思わず非常階段へ飛び出すと、そこは客室階とは思えない薄闇だった。壁紙が半ば焼け焦げ、灰色のススが指につく。視界の端に「五階」というプレートが見える。しかし廊下は火災現場のように変形し、部屋番号のプレートが溶け落ちていた。

 脳裏に焼きついたニュース映像が蘇る。二〇二一年、大阪北新地ビル放火殺人。たった十数秒で通路が火の壁に変わり、二十六人が逃げ場を失った。あの時、密室となった診療所の様子を示すシミュレーションCGを見たときの息苦しさが戻ってくる。


 裕子は叫び声を上げて駆け出した。炎はないのに、肌を刺す熱気。途中、片膝をついた女性が壁にもたれ、手にスマートフォンを握りしめていた。画面には、動画配信アプリのライブが映る。上下逆さまのチャット欄で、視聴者が笑い交じりに打った文字列――

 「飛べ!」「早く落ちろ!」

 霊園近くの配信者が、視聴者の言葉にあおられ自殺した事件を裕子は知っていた。二〇二〇年、映像はリアルタイムで拡散し、通報が間に合わなかった。女性はもう心臓が止まっているのか、まったく動かない。だがイヤフォンだけが赤いランプを点滅させ、耳もとで誰かが喚き続けている。


 視界が歪む。鼻を突く甘い匂いが強くなり、床は水でなく血に足を取られたかのように粘つく。遠くで給水塔の金属が軋み、再び数字が耳に注ぎ込む。七、二、五、九――。

 “Stay on thirteen.”

 十三階へ戻れというのか。

 裕子は非常階段を駆け上がった。踏むごとにコンクリが崩れ、視界は赤と黒が斑に明滅する。やっと踊り場で扉を押し開けた瞬間、冷たい夜気が頬を打った。屋上だった。

 雨は本降りになり、街の灯が滲んでいる。給水塔のふちに、さきほどの女の影が立っていた。濡れたロングコート、素足。

 「――来ちゃだめって言ったのに」

 影は振り返り、黒髪の下に虚ろな瞳をのぞかせた。その姿は、セシルホテルのエリサ・ラムが最後に映った監視カメラの、あの瞬間と酷似していた。


 塔の縁から、雨水がざあざあと溢れる。影はゆっくりと足を滑らせるように消え、代わりに水面下から白い指がのびた。次の瞬間、塔の蓋が跳ね上がる勢いで開き、腐ったような水が裕子に降りかかった。

 ライヴマイクが水を被り、絶縁の破れる音が轟く。裕子は目も耳も閉ざし、雨に打たれながら必死で息を吸った。

 「七、二、五、九……」

 耳鳴りのような暗号が、やがて自分の鼓動と重なり、意味を結ばなくなった。

 気がつくと、屋上には誰もいない。給水塔の蓋は閉じ、ヘッドホンの電源ランプが赤く瞬く。バッテリー残量はゼロなのに、かすかな水滴音だけが再生されている。


 やがて雨は小降りになった。雲間に月がのぞき、壊れた手すりの向こうに眠る東京の街が広がる。何事もなかったように走る深夜バスのライト、遠くのコンビニの緑色の看板。

 ただひとつ違うのは、十三階の給水塔から流れ落ちる水音が、ヘッドホン越しでも肉声のように響くことだった。

 「……来ないで……」

 囁きとともに、伸びた人形の黒髪が塔の側面に貼りついている。まるで誰かが、水面下から這い上がろうとしているかのように。


 裕子はマイクの電源を切った。録れた音はきっと、二度と編集室で再生されることはない。もし再生した瞬間、ヘッドホンの鼓膜に“Stay on thirteen”が蘇ったら、今度こそ戻る階はなくなる。


                      (了)


――補足――

物語はフィクションですが、挿入した出来事はすべて実在します。

・2013年、米ロサンゼルス「ホテル・セシル」で起きたエリサ・ラム失踪/給水タンクでの遺体発見。

・短波無線局「UVB-76(Buzzer)」が2010年に読み上げた暗号電文(72599…)。

・北海道岩見沢の萬念寺に安置される「お菊人形」の髪が伸び続ける奇談。

・2021年12月、大阪北新地ビル火災。

・2020年以降に問題となった、自殺を生配信し視聴者が扇動するSNS事件。

現実の断片が、雨音のようにどこかで重なっているかもしれません。

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