逆雨の峠
一
八月十九日、私は広島市安佐南区八木の山裾にいた。梅雨明け後なのに夜気は湿り、蝉の亡骸を踏むたび靴底がぬるりと鳴る。
私は防災誌の記者・鶴田真梨(三十四歳)。十年前の豪雨災害で土砂救助ボランティアに入った経験がある。その現場がちょうどこの斜面だった。
以来、毎年命日の午前零時に「雨が逆さに降る」と噂される。雨粒が地面から空へ舞い上がり、土砂に埋もれた家々の跡から子どもの傘が浮かぶのだと。通報しても警察は来ない。私は証拠を掴むべく、熱探カメラと集音マイクを担いで来た。
二
谷筋へ下る仮設階段は、土の匂いと漂白剤の匂いが混ざっている。闇の奥で虫がはぜ、遠くで水路が鳴る。救助活動中に見慣れた音だ。
午後十一時五十九分、取壊し前の擁壁を過ぎる頃、突然空気が冷えた。ヘッドホンからシーという広帯域ノイズが流れ、レベルメーターが跳ねる。
たん、と硬い音。木造の柱を叩くような軽さ。続いて複数の足音が泥を蹴り上げ、背後で止まる。振り向くと誰もいない。
三
零時〇三分。熱探カメラのモニターに、青白い斑点が二つ現れた。高度は私の膝ほど。近寄ると土の上に小さな水溜まりがある──ところが水面は凪いだまま、周囲の滴が下から上へ弾けている。逆流する雨。
マイクを向けると、少女の声が重なった。
「おかあさん、ちょっとだけ あめ とめて」
声の後ろでパタンと傘が開く音。熱探カメラには骨組みだけの傘の輪郭が映るが、肉眼には見えない。
零時〇七分。谷底の闇で、ぼうっと複数の傘のシルエットが立ち上がった。色とりどりの子ども傘だが、布はなく骨だけが空を刺している。傘はゆらゆら揺れ、次第に空へ向け持ち手を下げた。
その瞬間、頭上の闇に散った土砂の匂いが強くなり、耳元でパイプ椅子をこするような金属音が鳴る。私は身体が動かず、ただ録音を続けた。
零時十〇分。傘の列が一斉にこちらへ旋回し、骨の尖端が私の胸に向く。少女のささやきが耳の後ろで風化する。
「まだ むかえ こないの」
私は息を呑み、胸ポケットから十年前に拾った黄色い傘布の切れ端を取り出した。土砂の中、身元不明の女児のそばで見つかった遺留品――家族を捜す張り紙に添付されたまま、いまも持ち主が分からない。
私はそれを両手で掲げ、ぽつりと言う。
「迎えに来たよ」
風が渦を巻く。骨傘はいっせいに布を纏い、色彩を取り戻した。赤、水色、レモンイエロー……次の瞬間、それらは逆雨を弾きながら一つずつ夜空へ昇っていった。
匂いも音も消え、残ったのは切れ端のない傘布と、足元にできた小さな乾いた円だけだった。時計は零時十四分。谷筋に再び普通の下り雨が降り始めた。
四
ホテルに戻り録音を確認すると、逆雨の間だけ周波数が反転したような波形が連続していた。スペクトログラムを反転させると、白い空隙が並び、数字を描いている。
8・2・0
土砂災害の発生日。再生停止ボタンを押すと、ファイルは無音になり、傘布の切れ端もデスクの上で乾いた灰に変わって崩れた。
五
翌朝、献花台へ黄色い折り鶴を置いた。山肌には新しいコンクリート擁壁が伸び、再開発の重機が動く。私は斜面を見上げ、心の中で訊ねた。
「来年も、ここで待っている?」
返事はない。しかし防刃ベストの胸に残る冷えで、私は理解した。彼らはもう雨を逆さにしないかもしれない。迎えは遅くとも、必ず来ると分かったから。
私は記者ノートに最後の行を書いた。
――あの夜の雨は、土砂を流す力ではなく、記憶を撫でる手のひらだった。
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【実際にあったできごと】
・2014年8月20日未明、広島市安佐北区・安佐南区で局地的豪雨により土石流が発生。住宅地を直撃し、74名(うち子ども10名)が死亡した。
・最も被害が大きかった八木・梅林地区では、山腹の急激な崩壊が住宅密集地へ流下し、多数の家屋が倒壊・埋没した。
・現在も現地には慰霊碑と献花台が設けられ、毎年8月20日の深夜には遺族と住民が線香を手向け、黙祷を捧げている。