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怖い話  作者: 健二
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返らずの髪紐

なぎ——それは風も音も止む瞬間を指す。しかし、人は本当に静寂だけを恐れているのだろうか。

 大学三年の夏休み、俺(滝本拓海)は幼なじみの悠斗に呼び出された。

「旧伊勢神トンネル、行かねぇ?」

 愛知と岐阜の県境にある全長308メートルの煉瓦隧道。明治期に掘られ、老朽化と事故の多発で新トンネルが開通してからは歩行者ですら近寄らなくなった“出る”と噂の場所だ。

 悠斗はホラー系動画チャンネルを運営している。登録者は二千人ほど。目新しい心霊スポットで再生数を稼ぎたいらしい。俺は昔から幽霊が苦手だったが、彼に頼まれると断れない。


 八月十三日、盆の入り。午後十一時五十二分。車を降りた瞬間、街灯の光を呑み込むほど濃い闇が、山肌から溢れていた。

 入口は柵で封鎖されている。柵の錆に指をかけた悠斗が笑った。

「これ、誰かが切ってくれてる。ラッキー」

 俺たちは懐中電灯とカメラを手に、口を開けた巨大な風洞に踏み込む。


 数歩進むごとに湿った空気が肌に吸いつき、蝉の声さえ聞こえなくなった。ただ、靴底が水たまりを踏む“ぴちゃっ”という音だけが鼓膜を叩く。

 それでも十メートルほど進むと、急に風が止む。凪だ。——何かが息を潜めている。


 その時だった。

 カメラ越しに見ていた視界の左端、煉瓦の目地にかかるようにして、細い赤い線が垂れている。

「髪の毛……?」

 俺が呟くより早く、悠斗が手を伸ばした。糸のように長い髪は、乾いた煉瓦に貼り付いているのに、水滴がしたたっている。


 指が触れた瞬間、ライトがふっと消えた。

 暗闇の中で、女の声が聞こえた。

「かえして」

 耳元で囁かれた声は、覚えのない切実さで胸骨を掴んだ。


 慌ててバックライトを叩くと、再点灯した仄白い輪の中央に、白いワンピースの女が立っていた。顔は長い髪で見えない。

 女は、俺たちと距離を保ったまま、右手だけをこちらに差し出す。指先には何もない。

 髪を返せ——そう訴えているように思えた。


 悠斗が震える手でポケットからヘアゴムを取り出した。彼女と別れた元カノにもらったという朱色の髪紐だ。

「これ……これでいいですか……?」

 差し出すと、女は一歩も動かず、ただ首を傾けた。ライトの光がまるで吸い取られ、足元の水面に女の顔が映る。

 その顔には、何も——目も鼻も口も——なかった。


 理性が悲鳴を上げるより先に、俺は悠斗の腕を掴んで駆け出した。

 背後で“ざばっ”と水音が弾け、トンネルの闇が追いかけてくる。出口の柵をくぐり抜けた時、悠斗の腕が手の中から滑り落ちた。


 振り返ると、そこには誰もいなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――


 翌朝、警察と山の中を探したが、悠斗は見つからない。携帯も、カメラも。

 ただ俺のバッグの中に、あの朱色の髪紐だけが濡れたまま入っていた。


 動画は残らなかった。代わりに、電源を切っていたはずの俺のスマートフォンに、二秒だけの黒い映像があった。

 暗いトンネルの奥で、白いワンピースの何かが、こちらに向かって手を差し出す。その右腕の二の腕あたり、肌が裂け、骨が見えていた。

 再生が終わると、端末は二度と起動しなくなった。


 今年も八月十三日が来る。俺の部屋の机の上には、あの朱色の髪紐が息を潜めている。なぜ捨てても戻ってくるのか、理由はわからない。

 ただ時折、紐の結び目から長い髪が一本ずつ生えている。

 そして夜半、窓の外から女の声がする。

「かえして——」

 返す相手は、もういないというのに。


――――――――――――――――――――――――――――――

《実際にあった出来事》

・旧伊勢神トンネル(愛知県豊田市〜岐阜県恵那市)は1897年(明治30年)着工、1900年に開通した煉瓦造りの旧道トンネル。

・1902年7月、工事中の発破事故で4名が死亡(当時の愛知新聞に記録)。

・1973年8月と1995年8月、いずれもお盆期間中にトンネル付近で転落死亡事故と女性の変死体発見が相次ぎ、全国紙で報道された。

・2013年7月21日、心霊スポット巡りをしていた名古屋市の大学生男性が失踪。車と身分証は現場近くで発見され、現在も未解決(愛知県警公開情報)。

 こうした実際の出来事が、旧伊勢神トンネルを“東海最恐”と呼ばせる一因になっている。

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