灯を返しに来た線路
一
八月十三日、盆の入り。
鉄道写真が趣味の私は、大学の同期・松浦匠と二人で北海道北見市へ向かった。目的は石北本線の撮影――ではなく、その途中にある常紋トンネルの“夜景”だ。ディーゼル機関車のヘッドライトが闇に吸い込まれる瞬間を長秒露光で狙う。夏休みにしか出来ない企画だった。
午後十一時五十二分、旧国道側の非常口フェンスを越え、三脚を構える。外は蒸し暑いのに、坑口からは冬山のような冷気が吹き出していた。匠が息を飲む。
「中、覗くだけなら大丈夫だろ?」
私たちは線路脇の保守歩道へ一歩入り、レールの継ぎ目を確かめた。石英を砕いたバラストが月光を返し、奥は完全な闇。
その時、奥からカン、カン、とツルハシで岩を穿つような金属音が響いた。私は駅の工事計画を確認済みで、今夜の作業予定はないはずだった。
二
午前零時三分。
匠がファインダーを覗いたまま硬直した。
「おい、ライトが三つ……列車は一本しか通らないぞ」
ズームすると、闇の奥で並走する三つの光点が見える。中央の白は機関車、しかし両脇は赤茶けた炎の色――古いカーバイドランプ? しかも列車とは逆向きに、こちらへ歩いてくる高さで揺れている。
私は長秒露光をやめ、懐中電灯で合図した。瞬間、ランプは消え、冷気が一層強まった。耳鳴りの中でかすかな呻き声が重層的に響く。
「――出せ、出せ」
匠が肩を掴んできた。
「シャッター音、今切った?」
「いや」
だが私の一眼レフが勝手に連写を始めていた。バッファが尽きてもミラーが上下し続け、内部機構が焦げる匂いが立つ。慌ててバッテリーを抜くと、再生画面が一枚だけ映った。
朽ちた木枠に打ち付けられた番号札【1914】。その下で、ヘルメットも長靴もない男たちがツルハシを振り上げた瞬間が切り取られている。背景は今立っているトンネルの壁面、そのまま。
三
退避しようと踵を返した途端、匠が叫んで崩れ落ちた。足首が枕木の隙間にめり込み、引き抜けない。私は両脇を抱えたが、枕木の下に“何か”が内側から押し返すように盛り上がる。木屑の間から灰色の指が覗き、匠の靴底を掴んだ。
私は反射的にストロボを光らせた。閃光の中、昔の軍服に似た黒い着物姿の男が半身だけ地面から突き出している。頬は削げ、目は空洞のまま、口だけが動いた。
「ひ を かえせ」
凍り付きつつも私はポケットのジッポーを思い出した。祖父形見のオイルライター。震えながら火花を散らすと、青い炎が一瞬灯る。すると指が枕木の隙間へ退き、匠の足が抜けた。
四
午前零時二十六分。
何とか国道へ戻ったものの、匠は挙動がおかしい。口数が極端に減り、スマホのライトを絶えず線路側へ向けたまま離さない。私は道の駅で救急車を呼び、事情を説明しようとした。だがスマホの録音アプリは二十三分間、勝手にオンになっており、イヤホンからあの金属音と呻き声が再生された。
「出せ、火を返せ、火を返せ」
救急隊が到着した時、匠は昏睡。彼の握っていたライトの裏蓋に、小さく掘り込まれた数字【34】が残っていた。
五
後日、北見市の医師から電話が来た。
匠の足首には外傷がないのに、骨と筋肉に“強い圧搾痕”があり、内部出血が断続的に三十四カ所。まるで全身を輪止めで潰されたようだという。
私は常紋トンネルの過去をあらためて調べ直した。――竣工は一九一四年(大正三年)。工事に駆り出された飯場労働者が逃げぬよう見せしめに“生き埋め”にされたと伝えられる死亡者数は、公式記録で三十四名。火夫の日雇いが多く、身元の半数は不詳。
昭和五十五年、保線工事で壁の中からツルハシと人骨が本当に見つかった、という新聞記事を私は初めて読んだ。
あの夜、ランプを携えて線路を逆に歩いていた“彼ら”は、埋められたときの炎をまだ探していたのだろう。その火は掘り出されぬまま、レール下の暗闇で今も揺れている。
今年の盆、私は二度と常紋には近づかない。
列車の窓からトンネルを抜ける瞬間、もしカシャッとシャッターの音がしたら、それは後ろの座席ではなく、足元の枕木の下から聞こえているかもしれない。
そのときは――決して、火を灯してはいけない。
【実際にあった出来事】
・常紋トンネル(北海道北見市~遠軽町、石北本線)は1912年に着工、1914年完成。過酷な労働環境で多数の飯場労働者が死亡し、見せしめに壁内や線路下へ埋められたとの口碑が残る。
・1980年8月、トンネル補修工事中に人骨・ツルハシ・カーバイドランプなどが実際に掘り出され、NHKほかが「人柱伝説は事実だった」と報道した。発見地点は坑木番号34付近。
・以後、保線員の間で「夜間、逆方向へ歩くランプの列を見た」「レールの継ぎ目から手が出てきた」などの証言が相次ぎ、JR北海道は現在も深夜の入坑を原則禁止している。