白砂の唄
一
八月二十一日、那覇港の防波堤に立つと、夜の海が浴衣の裾をすくうように湿った風を送ってきた。私はフリーカメラマンの桐生悠人(三十六歳)。沖縄特集のラストカットとして「深夜の鳴り砂」を狙うため、渡嘉敷行きフェリーが発つ第三埠頭をロケ地に選んだ。
地元の郷土史家・比嘉文雄(八十)が案内役を買って出てくれたが、夕方、ホテル前でこう釘を刺した。
「明日の夜中はやめとけ。七十九年前と同じ潮の巡りだ」
彼が言う“七十九年前”とは、昭和十九年八月二十二日――学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷で沈められた日だ。だが私は沖縄戦の慰霊碑や対馬丸記念館も既に撮り、残る素材は夜の海しかない。
二
四時間後、比嘉はしぶしぶ同行した。午前零時二十分、防波堤近くの小さな浜へ降りる。白い砂は月光を受けて銀色に光り、踏むと「きゅっ」と高い音が鳴った。これが取材対象の“鳴り砂”だ。
私は三脚を据え、インターバル撮影を始める。波は穏やか、空には雲ひとつなく、那覇の市街の灯が蜃気楼のように揺れていた。
零時三十四分。
背後の防波堤で、乾いた足音がした。振り向くと誰もいない。比嘉は数十メートル先で手を合わせている。気のせいかと思った途端、砂の上に小さな裸足の足跡が浮かび、私の機材の周りをくるりと回った。さっきまで確かに何もなかった場所だ。
ファインダーを覗くと、モニターの暗部に人影が滲む。背丈はせいぜい小学生。肩には防空頭巾のような布をかぶせ、手をつなぎ列を作っている。だが肉眼では見えない。私はイヤホンをつけ、マイクを最大感度に上げた。
ざっ、ざっ、ざっ……。
砂のこすれるリズムが、画面の子どもたちの歩幅と一致する。そこへ幼い声が重なった。
「おかあさん、まだ?」
「きょうは おにぎり?」
「ねえ、もうおうち帰れる?」
声はヘッドフォン内ではなく、鼓膜の裏側で鳴っていた。私は震える手でRECを続行。すると列の最後尾にいた女の子が、急にこちらへ向き直った。古い木札の名札が胸で揺れ、「サト」と読める。
零時三十八分。
比嘉が突然、浜へ駆け寄ってきた。
「見るな!」
腕を引かれ、転倒した瞬間、潮が足首を飲み込んだ。満潮には早い。それでも海はひたひたと砂を這い上がり、子どもの列の足元を隠した。
白い波頭が砕けると、砂の上に黒いシミが点々と浮かぶ。油でも墨でもなく、血のように濃い。列は波に溶け、最後にサトだけが残った。彼女は片手を差し伸べ、唇だけを動かす。イヤホン越しに、かすれた合唱が響いた。
「きょうも おかわり ないまま……」
次の波が打ち寄せた瞬間、サトは崩れる砂像のように消えた。潮は一瞬で引き、浜は元の白さへ戻っていた。
三
ホテルに帰る車中、比嘉は汗まみれの顔で呟く。
「あの子らはな、陸に上がる前に記憶も空腹も止まったままなんだ」
対馬丸が沈没したとき、救命いかだもなく海へ投げ出された子どもたちの多くは、夜明け前に力尽きた。この浜は、戦後長い間“遺体が流れ着く浜”と呼ばれていたそうだ。
「毎年その日の夜だけ、空腹のまま行列して上陸する。迎えは来ないと知りながら」
四
翌日、記念館へ供花に行くと、受付の女性が私の名を知っていた。比嘉が電話で「内地の若い記者が“呼ばれた”」と伝えていたらしい。
「お時間あれば、資料室を見ますか」
案内された部屋で、私はサトの名札と同じ字体の遺留札を見つけた。
〈崎浜里 一年〉
係員が説明する。「この札だけは対馬丸の船倉から見つかりましたが、ご遺体は帰ってこなかったんです」
五
夜、ホテルの窓辺で音声データを確認した。波音の奥で子どもの列唱が続く。スペクトラム分析をかけると、縦軸に白い線が現れ、団子状の塊がモールス信号の「SOS」を描いていた。
私はファイルを外付けSSDに複写し、念のためクラウドにも上げた――はずだった。だが翌朝、どのフォルダも空。SSDのラベルシールには鳴り砂の粒が二つ貼りついていた。
データが消えても、耳にはあの合唱が残っている。八月二十二日の深夜、沖縄の海は再び満ちる。浜へ上がる小さな足跡を、誰かが迎えに行かなければ、彼らはいつまでも空腹のままだ。
私は来年もカメラを抱え、この浜へ戻るつもりでいる。音ではなく、温かい食べ物と灯りを持って――。
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【実際にあったできごと】
・対馬丸事件
1944年8月22日、沖縄の学童ら1,788人を含む疎開船「対馬丸」が鹿児島県悪石島沖で米潜水艦ボーフィンの魚雷により撃沈され、1,484人が死亡・行方不明となった。うち児童は約800人。生存者はわずかに数百名で、事件は軍の命令により終戦まで箝口令が敷かれた。
・那覇市若狭には「対馬丸記念館」と慰霊碑「小桜の塔」が建立され、毎年8月22日に慰霊祭が行われている。
・事件の翌年以降、那覇港近くの浜で深夜に子どもの歌や行進の足音を聞いたという証言が複数残されている(地元紙『琉球新報』昭和30年代の投書欄など)。
(対馬丸沈没および慰霊行事は史実である)