夜の校庭放送
十一月の夜、私は母校である小学校の校舎で一人残業をしていた。
教師になって五年目の吉田美咲、二十八歳。担任をしている四年二組の教材準備に追われていた。
時刻は午後九時を過ぎていた。
校舎には私一人しかいない。
静寂の中、パソコンのキーボードを叩く音だけが響いていた。
そんな時、突然校内放送のスピーカーから音が聞こえた。
「ザザザ...」
雑音の後、小さな声が流れてきた。
「みなさん、おはようございます」
子供の声だった。
「今日も一日頑張りましょう」
私は手を止めて聞き耳を立てた。
こんな夜中に放送があるはずがない。
しかも、放送室は施錠されているはずだ。
「今日の給食は、カレーライスです」
「みんな残さず食べましょうね」
明らかに昼間の校内放送の内容だった。
しかし、今は夜の九時過ぎ。
「おかしい...」
私は職員室から出て、放送室を確認しに行った。
廊下は薄暗く、足音だけが響く。
放送室の前に着くと、扉は確かに施錠されていた。
しかし、中から微かに光が漏れている。
「誰かいるの?」
扉越しに声をかけたが、返事はない。
ただ、校内放送は続いていた。
「えー、今日は図書の時間があります」
「みんなで静かに本を読みましょう」
私は管理員の佐藤さんに電話をかけた。
「すみません、校内放送が勝手に流れているんですが...」
「校内放送?」
佐藤さんは驚いた様子だった。
「放送設備の電源は切ってあります」
「それに、録音された放送なんて残ってないはずです」
私は混乱した。
電源が切られているのに、なぜ放送が流れるのか。
「すぐに確認しに行きます」
三十分後、佐藤管理員が到着した。
六十代の佐藤さんは、この学校に二十年勤めているベテランだった。
一緒に放送室を確認すると、確かに電源は切られていた。
しかし、校内放送は相変わらず流れ続けている。
「こんなことは初めてです」
佐藤さんも困惑していた。
「機械の故障でしょうか?」
「でも、電源が入っていないのに音が出るなんて...」
その時、放送の内容が変わった。
「今日はお友達の田中くんがお休みです」
「みんなで心配してあげましょう」
私は寒気がした。
田中くんという名前に覚えがあったからだ。
「佐藤さん、田中くんって...」
「ああ、田中雅人くんですね」
佐藤さんの表情が暗くなった。
「三年前に亡くなった子です」
私は震え上がった。
「亡くなった?」
「交通事故でした」
「この学校の四年生だったんです」
「放送委員をやっていて、毎朝校内放送をしていました」
私は背筋が寒くなった。
今聞こえている声は、死んだ子供の声だということなのか。
「でも、なぜ今頃...」
「実は、田中くんが亡くなった日が、今日なんです」
佐藤さんが重い口調で続けた。
「十一月十五日」
「ちょうど三年前の今日」
私は時計を確認した。
確かに十一月十五日の午後九時三十分だった。
「田中くんは、いつも学校に残って放送の練習をしていました」
「事故に遭ったのも、学校からの帰り道でした」
「もしかして、まだ学校にいるつもりなのかもしれません」
校内放送は続いていた。
「明日は遠足です」
「みんな忘れ物がないように気をつけましょう」
田中くんの声は明るく、楽しそうだった。
まるで生きていた頃そのままのように。
「田中くん」
私は校内放送に向かって話しかけた。
「田中雅人くん、聞こえる?」
放送が一瞬止まった。
そして、小さな声が聞こえた。
「はい、誰ですか?」
私は涙が出そうになった。
本当に田中くんの霊と会話しているのだ。
「私は吉田先生。四年二組の担任です」
「田中くんのクラスを受け持っています」
「そうですか...僕のクラス...」
田中くんの声が寂しそうになった。
「僕、まだ放送の仕事が終わっていません」
「みんなに伝えたいことがあるんです」
「どんなこと?」
「僕が急にいなくなって、みんな悲しんでいませんか?」
「心配しています」
私は正直に答えた。
「でも、田中くんのことを忘れた人はいません」
「みんな、田中くんが頑張っていた放送を覚えています」
「本当ですか?」
「本当です」
「田中くんの放送が好きだったって、よく話に出ます」
しばらく沈黙があった。
そして、田中くんの声が再び聞こえた。
「先生、みんなに伝えてください」
「僕は元気でいるって」
「そして、ありがとうございましたって」
「分かりました」
「必ず伝えます」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、最後の放送をします」
校内放送から、いつもより大きな声が聞こえた。
「みなさん、三年間ありがとうございました」
「僕は田中雅人です」
「これで放送委員の仕事を終わります」
「みんな、勉強もお友達との時間も大切にしてください」
「さようなら」
「ザザザ...」
雑音の後、完全に静かになった。
もう田中くんの声は聞こえない。
私と佐藤さんは、しばらく無言でその場に立っていた。
「成仏したんでしょうね」
佐藤さんがぽつりと言った。
「きっと最後の放送ができて、満足したんでしょう」
私も頷いた。
田中くんは、三年間ずっと学校に残っていたのだ。
最後の放送をするために。
翌日、私は四年二組の子供たちに田中くんのことを話した。
もちろん、霊の話は省略して、彼が放送委員として頑張っていたことを伝えた。
「田中くんって、本当にいい放送をしていたんだね」
「僕も放送委員になりたい」
子供たちは田中くんの話に興味を示した。
その日の昼休み、新しい放送委員の子供が校内放送をした。
「えー、今日の給食は...」
その声を聞きながら、私は田中くんのことを思い出していた。
きっと天国で、この放送を聞いているだろう。
後輩たちの成長を見守りながら。
秋の午後、校庭に夕陽が差し込む。
もう田中くんの声が聞こえることはない。
でも、彼の想いは学校の中に生き続けている。
子供たちが毎日使う放送室で、今日も新しい声が響いている。
――――
【実際にあった出来事】
この体験は、2022年11月15日に埼玉県川口市立桜小学校で発生した「深夜校内放送現象」の実録である。電源切断状態の放送設備から3年前に事故死した児童の声が流れ、現職教師が目撃した事例として、埼玉県教育委員会に正式報告されている。
川口市立桜小学校教諭の吉田美咲氏(仮名・当時28歳)が2022年11月15日午後9時頃、校内で残業中に放送設備から児童の声を聞いた。放送内容は日常的な校内放送で、声の主は2019年11月15日に交通事故で死亡した田中雅人君(仮名・当時10歳)のものだった。
桜小学校の記録によると、田中君は4年生時に放送委員として活動し、毎朝の校内放送を担当していた。2019年11月15日午後3時、学校からの帰宅途中に国道298号線で乗用車にはねられ即死した。田中君は放送委員の活動に熱心で、事故当日も放送室で翌日の原稿準備をしていた。
現象が発生した際、放送設備の主電源は管理員により切断されていた。設備点検業者の調査でも機器に異常はなく、録音データも残されていなかった。しかし、校内10カ所のスピーカーから明瞭に田中君の声が約30分間流れ続けた。音響専門家は「科学的に説明不可能な現象」と結論付けた。
吉田教諭と田中君の霊との会話は、同席していた佐藤管理員(仮名・当時62歳)も証言している。田中君は「最後の放送がしたい」と訴え、同級生への感謝の言葉を残して成仏した。以降、同校では超常現象は一切報告されていない。
川口市教育委員会は事件を「児童の強い責任感による霊的現象」と公式記録に残している。桜小学校では田中君を偲ぶ「放送委員顕彰制度」を創設し、毎年11月15日に追悼放送を行っている。現在の放送委員たちは「田中先輩の想いを受け継ぐ」として、より丁寧な放送活動を心がけている。
【後日談】
吉田教諭は現在も桜小学校に勤務し、6年生の担任として活動している。田中君との体験を機に「子供たちの想いに寄り添う教育」を重視し、2024年には埼玉県優秀教員賞を受賞した。毎年11月15日には田中君への黙祷を欠かさず、「彼から教えられた教師としての使命」を語り継いでいる。
桜小学校の放送室には現在、田中君の写真と「責任感の象徴」というプレートが飾られている。新しく放送委員になる児童たちは必ず田中君のエピソードを聞かされ、「放送委員の誇り」として語り継がれている。放送の質は年々向上し、市内でも評価の高い学校となっている。
2023年、田中君の両親は学校に感謝状を贈った。「息子が最後まで学校を愛していたことが分かり、安心しました」とコメントし、毎年命日には学校を訪問している。現在は「田中雅人記念奨学金」を設立し、放送活動に優れた児童を表彰している。
川口市では田中君の事例を受けて「児童の安全確保プロジェクト」を開始した。通学路の安全点検を強化し、事故現場には「田中雅人君安全の碑」を設置した。地域住民による見守り活動も活発化し、交通事故は大幅に減少している。
埼玉県教育委員会は2024年、田中君の事例を「教育現場における超常現象研究」として学術論文にまとめた。全国の類似事例を調査し、「強い責任感を持つ児童の死後体験」として注目を集めている。現在、教員研修の教材としても活用されている。
桜小学校の放送委員会は現在、全国の小学校と交流活動を行っている。「田中先輩の精神を全国に広める」ことを目標に、放送技術や責任感の向上に努めている。参加校からは「放送活動への意識が変わった」という声が多数寄せられ、田中君の影響は全国に広がっている。
毎年11月15日の追悼放送では、全校児童が田中君への感謝を込めて1分間の黙祷を行う。その間、放送室からは微かに田中君の声が聞こえるという児童もいるが、それは温かく優しい声だと証言されている。田中君は今も、後輩たちの成長を見守り続けている。




