墜落点の標高は一五六五
一
八月十二日、午前十一時。
群馬県上野村、御巣鷹の尾根登山口。
大学山岳部OBの私は、慰霊登山のボランティアガイドとして都内の高校生三人を案内するはずだった。だが集合時間になっても現れたのは引率教師と女子生徒の早瀬灯だけ。残りの二人は「腹痛でキャンセル」と連絡が入ったという。
「二人でも決行しますか?」と尋ねた私に、灯は首を振った。
「わたし、一人でも行きます。今日じゃないと、だめなんです」
二
入山から二十分。尾根筋に取り付くロープを握った瞬間、稜線を吹き下ろす風が止み、蝉の声まで凍りついた。代わりに遠い金属音──航空機の昇降舵が噛み合うときのような“ギギギ”が、樹間を渡ってくる。
高度計を見ると六七〇メートル。だが地形図ではここは八四〇メートルのはずだった。誤差百七十。奇妙に胸騒ぎがする数字。
「だれか……呼びましたか?」
灯が振り向く。背後に人影はない。風の無い森で、細い声だけが尾を引いて消えた。
三
午後一時三分。
標高一一〇〇メートルの慰霊碑前で昼食を取る。灯はリュックから白い折り紙の鶴を五百二十羽取り出した。
「足りないんです。ほんとは五百二十一羽のはずなのに」
「五百二十一?」
「……今日で、三十八年目なんですよね」
私は言葉を失った。五百二十は、いつも語られる犠牲者数だ。もう一羽は、誰だ?
その瞬間、スマートフォンが警告音を上げた。圏外のはずの画面に“12 AUG 1985 18:56”と大きく表示され、勝手にストップウォッチが動き出す。
00:00:01──
どくん、と鼓動が一拍抜ける。後ろで落枝が砕け、振り返ると尾根の斜面に真新しいスーツケースが転がっていた。焦げ跡も埃もない。タグには“行先 伊丹”と打たれ、ペンで「欠 航」と書き足されている。
四
午後四時四十。
尾根の最上部、標高一五六五メートルのケルンに到着。ここが公式の墜落地点。私は毎年来ているが、今年は異様だった。献花台に誰もいない。無数の千羽鶴が風で舞い、空は茜に染まりつつあるのに蝉が鳴かない。
灯が折り紙鶴を一羽ずつ積み上げる。最後の一羽分の空白を残し、彼女は鞄を探った。
「やっぱり、足りない。どうしても足りないんです」
そのとき、尾根下から吹き上げる熱風が血の匂いを運んできた。
私は思わず叫んだ。「もう下山しよう。日が暮れる」
「母を置いて帰れません」
灯が振り返った。その瞳は焦点を結ばず、わずかに宙を泳いでいる。
「母は二十七歳で亡くなりました。私を身籠もってたんです。でも公式の数に入っていない。だから……最後の一羽がいないんです」
五
十八時五十五分五十二秒。
スマホのストップウォッチが「00:59:59」で震え、次の瞬間「R E C O V E R Y」の文字を映した。尾根全体が低い唸りを上げる。地面が、一分間だけ心臓のように脈打っている。
灯が空白の上にそっと手を置いた。
「還るね、お母さん」
空気が裂け、鶴が一羽、どこからか舞い降りてきた。折り目は湿り、紙のはずなのに黒く焦げている。彼女はそれを重ね、合掌した。
その瞬間、耳を劈く金属音とともに、暗闇の中へジェットエンジンの遠吠えが吸い込まれていった。
私は目を閉じた。
目を開けたとき、灯はケルンのそばで倒れていた。浅い呼吸はある。周囲はふたたび蝉時雨。高度計は正しく一五六五を示していた。
六
駐車場まで戻ったのは夜九時過ぎ。
上野村駐在所で事情を説明すると、当直の巡査が黙って奥へ消え、写真を持って戻ってきた。
「毎年、今日の夕方になると花を置きに来る女性がいたんですが、三年前からぱったり途絶えました。――この人ですか」
写真には妊娠中とおぼしき若い女性と、男児を抱いた夫が写っていた。背後には羽田発伊丹行のボーイング747。撮影日は昭和六十年八月十二日。
灯は写真を両手で受け取り、泣きながら首を振った。
「この写真、わたしの父です。でも……母の顔が写っていません」
写真の左半分、母が立っているはずの場所は、焼け爛れたように茶色のシミで消えていた。
【実際にあった出来事】
1985年8月12日18時56分ごろ、日本航空123便(ボーイング747SR-100、JA8119)は羽田空港を離陸後、後部圧力隔壁の破壊に伴う油圧全喪失により群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。乗員乗客524名のうち520名が死亡、生存者は4名。単独機の航空事故としては世界最多の犠牲者数となった。事故現場の標高は1565メートル前後で、現在も毎年8月12日に慰霊登山が行われ、遺族やボランティアが慰霊碑と献花台を整備している。