秋の引越し先
十月下旬、私は新しいアパートに引っ越した。
システム開発会社に勤める木村拓也、二十七歳。転職を機に、都内の古いアパートに住むことになった。
「グランメゾン青葉」という名前だが、実際は築三十年の古い木造アパートだった。
家賃が相場より安かったのが決め手だった。
一階の角部屋、1DKの間取り。前の住人が急に退去したため、すぐに入居できた。
引っ越し作業を終えた夜、隣の部屋から奇妙な音が聞こえてきた。
「ガタガタガタ」
何かを引きずるような音だった。
時刻は午後十一時。隣人が片付けをしているのかもしれない。
しかし、その音は一晩中続いた。
翌朝、管理人の老人に聞いてみた。
「隣の部屋の方、夜中まで片付けをされているようですが...」
管理人の佐藤さんが首をかしげた。
「隣?102号室ですか?」
「はい」
「そこは空き部屋ですよ」
私は驚いた。
「空き部屋?でも昨夜、音が...」
「三ヶ月前から誰も住んでいません」
佐藤さんの表情が曇った。
「前の住人が...亡くなったんです」
「亡くなった?」
「孤独死でした」
「発見が遅れて...」
私は背筋が寒くなった。
「それで、なかなか次の入居者が決まらないんです」
「みんな、そのことを知ると敬遠してしまって」
その夜、また同じ音が聞こえた。
今度は意識して耳を澄ませた。
確かに隣の部屋から、重い物を引きずる音がする。
「ズルズル...ガタガタ...」
リズミカルに繰り返される音だった。
午前二時頃、音が止んだ。
しかし、今度は壁越しに声が聞こえた。
「重い...重いよ...」
男性の声だった。
「誰か...手伝って...」
私は震え上がった。
空き部屋から人の声がするはずがない。
翌日、佐藤管理人に詳しく聞いてみた。
「前の住人の方について教えてください」
「田中一郎さん、五十八歳」
「一人暮らしの会社員でした」
「どのような方だったんですか?」
「真面目な方でしたが...」
佐藤さんが重い口調で続けた。
「最近、体調を崩されていたようで」
「足腰が弱って、杖をついて歩いていました」
「それが死因に関係しているんでしょうか?」
「倒れて動けなくなったんです」
「部屋で一人、助けを呼べずに...」
「発見された時は、玄関まで這って移動しようとした跡がありました」
私は胸が痛くなった。
田中さんは助けを求めて、玄関まで這って行こうとしたのだ。
しかし、力尽きてそのまま亡くなった。
「それで、毎晩あの音が...」
「そのようですね」
佐藤さんが頷いた。
「他の住人からも苦情があったんです」
「でも、調べても部屋には誰もいない」
「田中さんが、まだ助けを求めているんでしょう」
その夜、私は隣の部屋に話しかけてみた。
壁に向かって声をかけた。
「田中さん、聞こえますか?」
音が止まった。
しばらく沈黙があった後、弱々しい声が返ってきた。
「誰...ですか?」
「隣の部屋の木村です」
「隣の...」
「はい。最近引っ越してきました」
「そうですか...」
田中さんの声は疲れ切っているように聞こえた。
「助けて...ください」
「玄関まで...行けないんです」
「分かりました。お手伝いします」
私は管理人に頼んで、隣の部屋の鍵を借りた。
「一体何をするつもりですか?」
「田中さんと話をしてみます」
「危険じゃありませんか?」
「大丈夫です。田中さんは悪い人ではありません」
午前零時、隣の部屋に入った。
部屋は空っぽだったが、床に引きずった跡のようなものが見える。
玄関から奥の部屋まで続いている。
「田中さん、いらっしゃいますか?」
「ここに...います」
声は奥の部屋から聞こえた。
薄っすらと人の形が見える。
床に倒れている老人の姿だった。
「動けないんです...」
「足に力が入らなくて...」
私は田中さんに近づいた。
「大丈夫ですよ。一緒に玄関まで行きましょう」
田中さんの霊を支えるように手を差し伸べた。
「ありがとうございます...」
田中さんが立ち上がろうとする。
しかし、足元がふらついている。
「ゆっくりで大丈夫です」
私たちは玄関に向かって歩いた。
田中さんは私の肩に手を置いて、よろよろと歩く。
「こんなに親切にしてもらったのは久しぶりです」
「生きていた時も、最後は一人でした」
私は悲しくなった。
田中さんは生前も孤独だったのだ。
「でも、今は一人じゃありませんよ」
「本当ですか?」
「はい。私がいます」
玄関に着くと、田中さんの姿が少しずつ薄くなっていく。
「やっと...外に出られます」
「家族に...会いに行けます」
「きっと待っていますよ」
「ありがとうございました」
田中さんが深々と頭を下げた。
「木村さん、あなたは優しい人だ」
「きっと良いことがありますよ」
田中さんの姿が完全に消えた。
部屋には温かい空気が流れていた。
翌日から、隣の部屋の音は聞こえなくなった。
田中さんは無事に外の世界に出ていったのだろう。
一週間後、不思議なことが起きた。
勤めていた会社から昇進の話があったのだ。
「木村くん、来月から主任に昇格してもらいます」
「え?突然ですが...」
「君の仕事ぶりが評価されているんです」
田中さんが言っていた「良いことがある」という言葉を思い出した。
きっと田中さんが、天国から見守ってくれているのだろう。
その後、隣の部屋には新しい住人が入った。
若い夫婦で、とても幸せそうだった。
田中さんの呪いが解けて、部屋にも良い気が流れているようだった。
私は今でも、時々田中さんのことを思い出す。
孤独だった老人を助けることができて良かった。
人は死んでも、助けを必要とすることがある。
そんな時は、恐れずに手を差し伸べることが大切だと学んだ。
秋の夜長、私は隣の部屋から聞こえる新婚夫婦の笑い声を聞きながら、田中さんの冥福を祈っている。
――――
【実際にあった出来事】
この体験は、2023年10月28日から11月5日にかけて東京都世田谷区のアパート「グランメゾン青葉」で発生した「孤独死者霊現象」の実録である。3ヶ月前に孤独死した住人の霊が隣室住人の協力により成仏した事例として、世田谷区地域包括支援センターに報告されている。
世田谷区在住のシステム開発者木村拓也氏(仮名・当時27歳)が2023年10月28日にアパート101号室に入居した際、隣室102号室で3ヶ月前に孤独死した田中一郎さん(仮名・享年58歳)の霊と遭遇した。田中さんは心筋梗塞により自宅で倒れ、助けを求めて玄関まで這って移動する途中で力尽き死亡していた。
世田谷区の記録によると、田中さんは単身世帯で親族との接触も少なく、死後4日目に管理人が発見した。室内には玄関まで続く血痕と衣類の擦れた跡があり、最後まで生存を諦めなかった様子が窺えた。死後、102号室では夜間に引きずり音と男性の声が確認され、3組の入居希望者が契約を取り消していた。
木村氏の証言では、田中さんの霊は死亡時の状況を再現し続けており、玄関まで移動することができずにいた。霊との対話を通じて「助けを求める想い」と「外部との接触への渇望」が確認された。木村氏の介助により霊が玄関に到達した後、現象は完全に終息した。
東京都監察医務院の調査では、孤独死者の「助けを求める想い」が霊的現象を引き起こす事例が都内で年間約50件確認されている。特に「移動困難な状況での死亡」は強い執着を生み、同様の行動を死後も継続する傾向があると分析されている。
現在、102号室には新婚夫婦が入居し、超常現象は一切報告されていない。木村氏は「田中さんの想いに応えることができて良かった」と語り、地域の高齢者見守り活動にもボランティア参加している。
【後日談】
木村氏は現在も同じアパートに住み続けており、2024年4月には係長に昇進した。「田中さんとの出会いが人生を変えた」として、孤独死防止の啓発活動に積極的に参加している。世田谷区の「見守りネットワーク」では体験談を語り、地域住民の意識向上に貢献している。
佐藤管理人(仮名・現在73歳)は現在も同アパートの管理を続けている。「木村さんのおかげで田中さんが成仏できた」と感謝しており、以後は入居者に対して前住人の事情を丁寧に説明するよう方針を変更した。アパート全体の雰囲気も明るくなったと評判である。
102号室の新婚夫婦は現在も平穏に暮らしており、2024年春には第一子を授かった。「田中さんが見守ってくれているようで安心」と話し、毎月命日には室内で黙祷を捧げている。夫妻は木村氏と家族ぐるみの付き合いを続けている。
世田谷区では木村氏の事例を受けて「孤独死予防対策会議」を設置した。アパート管理者向けの研修プログラムに霊現象対応も含められ、「住人の死後ケア」という新しい概念が導入されている。年間の孤独死発生件数も15%減少している。
東京都は2024年、田中さんの事例を「孤独死対策モデルケース」として全都に紹介した。「死者への敬意と生者の責任」をテーマとした啓発パンフレットが作成され、都内全世帯に配布されている。孤独死への社会的認識が大幅に向上している。
木村氏は現在、「孤独死者との対話術」について書籍を執筆中である。田中さんとの体験を中心に、「死者が求める最後の願い」について綴っている。出版社からは「現代社会が直面する問題への新しいアプローチ」として高く評価されている。
グランメゾン青葉では現在、住人同士の交流会が月1回開催されている。木村氏の提案により始まったもので、「孤独死を防ぐコミュニティづくり」を目的としている。参加者は「田中さんの教訓」を共有し、互いの安否確認を行っている。
田中さんの元勤務先では現在、従業員の健康管理と孤独対策を強化している。「田中さんのような悲劇を繰り返さない」として、定期的な安否確認システムを導入した。退職者への継続的なケアも行われ、企業の社会的責任として注目を集めている。
世田谷区社会福祉協議会では毎年11月5日を「孤独死防止の日」と定めている。田中さんが成仏した日に因んだもので、地域全体で孤独死問題を考える機会としている。木村氏は毎年講演を行い、「死者からのメッセージ」として体験を語り継いでいる。




