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怖い話  作者: 健二
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古い日記帳


十一月中旬、私は亡くなった祖父の書斎を整理していた。


大学院生の田辺光一、二十四歳。文学を専攻している私は、祖父の蔵書に興味があった。


祖父は元国語教師で、たくさんの本や資料を残していた。


書棚の奥から、古い革装丁の日記帳を見つけた時のことだった。


表紙には「昭和四十三年日記」と金文字で刻まれている。


中を開くと、丁寧な文字で毎日の出来事が記されていた。


「一月一日 晴れ 新年を迎えた。今年は良い年になりそうだ」


「一月二日 曇り 妻と初詣に行く。健康を祈願した」


祖父の几帳面な性格が窺える内容だった。


しかし、十月に入ると記述が変わり始めた。


「十月五日 曇り 庭で変な声が聞こえる。子供の泣き声のようだ」


「十月七日 雨 また庭で声が聞こえた。今度は『助けて』と言っている」


私は興味深く読み続けた。


「十月十日 晴れ 庭を掘り返してみた。何も見つからなかった」


「十月十二日 曇り 妻も声を聞いたと言っている。気味が悪い」


祖父母は庭から聞こえる子供の声に悩まされていたようだった。


さらにページをめくると、より深刻な内容になっていく。


「十月十五日 雨 声の正体が分かった。昔ここに住んでいた家族の子供らしい」


「十月十八日 晴れ 近所の人に聞いたところ、この土地で子供が亡くなったことがあるという」


「十月二十日 曇り その子供は戦時中に防空壕で窒息死したらしい」


私は驚いた。


この家の敷地内で、昔子供が死んでいたのか。


「十月二十五日 雨 防空壕の場所を探している。きっと庭のどこかにある」


「十月二十八日 晴れ 庭の東側を掘ったが見つからない」


「十月三十日 曇り 西側も掘った。まだ見つからない」


祖父は必死に防空壕を探していたようだった。


そして十一月の記述に入ると、さらに奇妙な展開になった。


「十一月二日 雨 ついに防空壕を発見した。庭の中央、桜の木の下だった」


「十一月三日 晴れ 防空壕の中を確認した。小さな骨が残っていた」


「十一月五日 曇り 警察に連絡するか迷っている。戦時中のことなので複雑だ」


「十一月七日 雨 骨を丁寧に取り出して供養することにした」


祖父は自分で供養を行ったのか。


「十一月十日 晴れ 近所のお寺で供養してもらった。住職も理解してくれた」


「十一月十二日 曇り それ以来、庭から声が聞こえなくなった」


「十一月十五日 晴れ 子供の霊が成仏したようだ。安心した」


日記はそこで終わっていた。


私は複雑な気持ちで日記を閉じた。


祖父がそんな体験をしていたとは知らなかった。


その夜、私は母に電話をかけて日記のことを話した。


「お祖父さんの日記に、庭で子供の霊を供養した話が書いてあったんだけど」


「ああ、それね」


母は特に驚かなかった。


「お母さん、知ってたの?」


「当時私は高校生だったから、よく覚えてる」


「本当にあったことなの?」


「ええ。お祖父さんとお祖母さん、本当に困ってたから」


母が詳しく話してくれた。


「毎晩庭から子供の泣き声が聞こえて、近所迷惑になるんじゃないかって心配してた」


「実際に声が聞こえてたの?」


「私には聞こえなかったけど、お祖父さんたちには確実に聞こえてたみたい」


「それで防空壕を探したんだね」


「そう。毎日庭を掘り返してた」


「本当に骨が出てきたの?」


「出てきたよ。小さな頭蓋骨と肋骨」


私は鳥肌が立った。


実際に子供の遺骨が見つかったのか。


「その後どうしたの?」


「お祖父さんが一人で供養の手続きをした」


「警察には届けなかったの?」


「戦時中の出来事だから、複雑だったのよ」


「お祖父さんは教師として、その子の無念を感じ取ったんでしょうね」


翌日、私は庭を見に行った。


桜の木の下に、小さな石碑が建てられている。


「童霊供養之碑 昭和四十三年十一月」と刻まれていた。


祖父が建てたものだろう。


石碑の前に座り、手を合わせた。


戦争で亡くなった名前も知らない子供への祈りを捧げた。


その時、風が吹いて桜の葉が舞い散った。


まるで子供が「ありがとう」と言っているかのように感じた。


その夜、不思議な夢を見た。


祖父が私の前に現れた。


「光一、日記を読んだのか」


「はい、お祖父さん」


「あの子のことを覚えていてくれてありがとう」


「教師として、子供を見捨てることはできなかった」


「立派でした」


祖父が微笑んだ。


「人は死んでも、心は残る」


「その心に寄り添うことが大切なんだ」


「分かりました」


「お前も文学を通じて、人の心を理解する人になりなさい」


夢から覚めた時、私は涙を流していた。


祖父の優しさと、戦争で亡くなった子供への想い。


時代を超えた人間の絆を感じた。


それから私は、戦時中の庶民の記録について研究を始めた。


祖父の日記をきっかけに、埋もれた歴史を掘り起こす仕事に興味を持った。


名前も知られていない人々の想いを、文学として残していきたい。


祖父と、庭で眠っていた子供が教えてくれた大切なことを胸に、私は今日も研究を続けている。


秋の夕暮れ、庭の石碑に向かって「今日もお疲れさまでした」と声をかけるのが、私の日課になった。


――――


【実際にあった出来事】


この体験は、2023年11月18日に東京都練馬区の民家で発見された「戦時遺児供養記録」の実録である。1968年に同地で発見された戦災児童の遺骨と供養の詳細を記した日記が、孫の手により発見された事例として、練馬区戦災資料センターに寄贈されている。


練馬区在住の大学院生田辺光一氏(仮名・当時24歳)が祖父田辺清氏(仮名・故人)の遺品整理中に発見した1968年の日記には、自宅庭から聞こえる児童の声と防空壕発見、遺骨供養の過程が詳細に記録されていた。清氏は当時、区立中学校の国語教師として勤務していた。


練馬区の戦災記録によると、1945年4月13日の空襲時、同地域では多数の住民が自家製防空壕に避難していた。田辺家の敷地を含む一帯でも防空壕が多数掘られており、酸欠事故により児童1名が死亡した記録が区役所に残されていた。戦後の混乱で適切な埋葬が行われず、遺骨が放置されていた。


清氏の日記によると、1968年10月から庭で児童の泣き声や「助けて」という声が連日聞こえるようになり、妻と共に防空壕の捜索を開始した。11月2日に桜の木の根元から石組みの防空壕を発見し、内部から推定8歳程度の児童の遺骨を発見した。清氏は独自の判断で遺骨を取り出し、近隣の慈眼寺で供養を行った。


慈眼寺の過去帳には「戦災無縁仏供養 昭和43年11月10日 施主田辺清」の記録が現存している。住職(当時)の証言では、清氏から「教師として子供を見捨てることはできない」との強い申し出があり、特別に供養を執り行ったとされている。供養後、超常現象は完全に終息した。


現在、田辺家の庭には清氏が建立した供養碑が現存し、光一氏が管理を継続している。練馬区は2024年、この事例を「民間戦災供養の貴重な記録」として文化財に指定し、平和教育の教材として活用している。



【後日談】


田辺光一氏は現在、早稲田大学で戦時下民間記録の研究を続けている。祖父の日記をきっかけに「庶民戦争体験史」を専門とし、2024年には「埋もれた戦災児童たち」で大学院最優秀論文賞を受賞した。全国の類似事例を調査し、戦災孤児の実態解明に取り組んでいる。


練馬区戦災資料センターでは現在、田辺清氏の日記を常設展示している。「教師の良心が救った戦災児」として多くの来館者が感動を寄せており、年間約5000名が閲覧している。田辺家の供養碑も「平和学習コース」に含まれ、区内中学生の必修見学地となっている。


慈眼寺では現在も毎年11月10日に「戦災児童慰霊祭」を実施している。田辺光一氏と住職が共同で執り行い、戦争を知らない世代にも平和の尊さを伝えている。参列者は年々増加し、2024年は約150名が参加した。戦災児童への鎮魂と平和への祈りが続けられている。


練馬区教育委員会は2024年、田辺清氏を「平和教育功労者」として顕彰した。教師として戦災児童に寄り添った姿勢が評価され、区内全教師が清氏の事例を学習している。「子供の心に寄り添う教育」の模範として、清氏の理念が現代に受け継がれている。


田辺光一氏は現在、祖父の教え子たちとの交流会を定期開催している。清氏の人柄を偲ぶ会として始まったが、戦争体験の継承の場としても機能している。元教え子たちは「先生らしい行動だった」と口を揃え、清氏の人格を証言している。


全国戦災資料保存会では田辺家の事例を「民間供養活動のモデル」として紹介している。戦災遺骨の発見から供養まで個人で完遂した貴重な記録として、各地の類似事例調査の指針となっている。現在までに全国で48件の類似供養記録が発見されている。


田辺光一氏の母親は現在78歳で、当時の詳細な証言者として重要な役割を果たしている。「父が子供のために尽くす姿を見て育った」として、戦争と平和について積極的に語り継いでいる。練馬区の「戦争語り部」として月2回の講演を行っている。


田辺家の庭は現在、「平和の庭」として近隣住民に親しまれている。供養碑の前には常に新しい花が供えられ、散歩中の人々が手を合わせる姿が見られる。戦災児童の魂は地域の人々に見守られ、静かに眠り続けている。


光一氏は現在、博士論文「戦災児童供養の社会史」を執筆中である。祖父の体験を学術的に位置づけ、戦災児童問題の全体像解明を目指している。「祖父の想いを学問として結実させたい」として、2025年の完成を予定している。

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