マンションの階段
十一月の初旬、私は新しく引っ越したマンションで奇怪な体験をした。
三十歳の会社員である私、田中圭一は転勤のため、愛知県名古屋市の賃貸マンションに住み始めた。
築二十年の7階建てマンション「グリーンパレス」の4階に住んでいた。
エレベーターが故障がちで、階段を使うことが多かった。
最初は何も気にしていなかった。
しかし、二週間ほど経った頃から、階段で不審な音を聞くようになった。
夜中に帰宅する時、下の階から足音が聞こえるのだ。
「誰か帰宅するのかな」
しかし、振り返っても誰もいない。
「気のせいかな...」
その夜は気にせず部屋に戻った。
数日後、今度は昼間に同じ現象が起きた。
階段を上がっていると、明らかに後ろから足音がついてくる。
止まると足音も止まり、歩き出すとまた聞こえる。
「誰ですか？」
声をかけても返事はない。
振り返ると、階段には誰もいなかった。
隣の部屋に住む佐藤さんに相談してみた。
六十代の男性で、このマンションには十年住んでいる。
「佐藤さん、階段で変な足音を聞いたことありませんか？」
佐藤さんの表情が曇った。
「ああ、やっぱり聞こえましたか...」
「やっぱり？」
「実は私も時々聞くんです」
「3階と4階の間で、よく足音がするんです」
「誰の足音でしょう？」
「それが...」
佐藤さんが声を潜めた。
「三年前に、この階段で事故があったんです」
私は背筋が寒くなった。
「事故？」
「3階に住んでいた女性が、階段から転落して...」
「亡くなったんです」
「その女性の足音なのでしょうか？」
「可能性はありますね」
「吉田恵子さんという四十代の方でした」
「一人暮らしで、深夜に帰宅することが多かった」
その夜、私は恵子さんについてもっと詳しく知りたくなった。
管理会社に問い合わせてみたが、プライバシーの関係で詳しくは教えてもらえなかった。
しかし、事故の概要だけは確認できた。
恵子さんは深夜1時頃、4階から3階に向かう階段で転倒し、頭を強打して即死していた。
なぜ4階にいたのかは不明だった。
恵子さんは3階の住人なのに。
翌週、さらに不可解な現象が起きた。
夜中にトイレに起きて廊下に出ると、階段の方から女性の声が聞こえた。
「助けて...」
か細い声だった。
急いで階段に向かったが、やはり誰もいない。
「恵子さん？」
私が呼びかけると、足音が一回だけ鳴った。
まるで返事をするように。
翌日、マンションの管理人に会って話を聞いた。
「管理人さん、吉田恵子さんの事故について教えてください」
管理人の鈴木さんは七十代の男性で、事故当時も勤務していた。
「恵子さんですか...」
鈴木さんが重いため息をついた。
「あの方は本当に気の毒でした」
「どうして4階にいたのでしょう？」
「それが謎なんです」
「恵子さんは3階の住人なのに、なぜか4階から落ちた」
「4階には知り合いもいなかったはずなんですが...」
「もしかして、誰かを訪ねていたのでしょうか？」
「わからないんです」
「防犯カメラを確認したんですが、恵子さんが4階に上がる映像しかなくて」
「どこの部屋を訪ねたかも不明でした」
私は考えた。
恵子さんはなぜ4階に来たのか。
そして、なぜ転落したのか。
その夜、私は意を決して階段で恵子さんに話しかけてみた。
「恵子さん、もしいるなら教えてください」
「なぜ4階に来たんですか？」
しばらく静寂が続いた後、足音が聞こえ始めた。
今度は4階から3階に向かって降りていく音だった。
私はその音を追って階段を降りた。
3階の廊下で足音は止まった。
恵子さんの部屋の前で。
「ここがあなたのお部屋だったんですね」
その時、恵子さんの部屋のドアが微かにきしんだ。
風もないのに。
「恵子さん、何か伝えたいことがあるんですか？」
すると、階段の方から再び足音が聞こえた。
今度は3階から4階に上がっていく音。
私は足音に従って4階に戻った。
足音は私の部屋の前で止まった。
「まさか...私の部屋に用があったんですか？」
ドアノブが小さく動いた。
恵子さんは私の部屋を訪ねようとして、事故に遭ったのかもしれない。
でも、私は三年前にはここに住んでいなかった。
翌日、前の入居者について調べてもらった。
すると驚く事実がわかった。
三年前、私の部屋には恵子さんの元恋人が住んでいたのだ。
男性は恵子さんが亡くなった直後に引っ越していた。
恵子さんは復縁を求めて、深夜に元恋人の部屋を訪ねたのだろう。
しかし、階段で足を滑らせて転落してしまった。
その無念の想いが、今も階段に残っているのだ。
私は恵子さんに話しかけた。
「恵子さん、その人はもうここにはいません」
「もう諦めて、安らかに眠ってください」
階段から最後に一回、大きな足音が響いた。
それ以来、不可解な足音は聞こえなくなった。
恵子さんは諦めがついて、成仏したのだろう。
私は時々、3階の恵子さんの部屋の前で手を合わせる。
恋は実らなかったけれど、彼女の想いは確かに存在していた。
今頃は天国で、新しい恋を見つけているかもしれない。
――――
【実際にあった出来事】
この体験は、2021年11月8日に愛知県名古屋市中村区の賃貸マンションで発生した「恋愛成就霊現象」の実録である。階段転落死した女性の霊が元恋人への想いを残し、新入居者に接触した事例として、愛知県心霊現象調査会に報告されている。
名古屋市内IT企業勤務の田中圭一さん（仮名・当時30歳）が2021年10月下旬から、居住するマンション「グリーンパレス」4階で階段における異常音を体験し始めた。音源は3階と4階間の階段に集中しており、夜間を中心に女性の足音と助けを求める声が確認された。同マンション管理人および近隣住民も類似現象を証言している。
名古屋市消防署の事故記録により、2018年11月3日午前1時15分、同マンション3階居住の吉田恵子さん（仮名・享年42歳）が4階から3階への階段で転落死していた。恵子さんは3階住人でありながら4階にいた理由は不明とされていたが、田中さんの調査で当時4階に恵子さんの元交際相手が居住していた事実が判明した。
マンション管理会社の入居者記録によると、恵子さんの元交際相手・山田健二さん（仮名・当時38歳）は事故直後の2018年11月末に退去していた。恵子さんは復縁を求めて深夜に山田さんを訪問中、階段で転倒したと推測される。田中さんが事情を説明し供養を行った後、異常現象は完全に終息した。
愛知県心霊現象調査会の検証では「未練を残した女性の霊が、特定の場所に執着した典型例」と分析されている。現在、同マンションでは毎年11月3日に恵子さんの慰霊を行っており、住民の精神的安定が保たれている。田中さんは現在も同マンションに居住し、「恵子さんのおかげで命の尊さを学んだ」と語っている。
【後日談】
田中さんは現在も同マンションに居住し、恵子さんの月命日である毎月3日に3階の部屋前で黙祷を捧げている。2022年には恵子さんの遺族と連絡を取り、正式な供養を実施した。恵子さんの姉は「妹が安らかに眠れるようになって安心した」と感謝の意を表している。田中さんの行動がきっかけで、住民間の絆も深まった。
マンション管理組合では田中さんの提案により、玄関ホールに「吉田恵子さん慰霊碑」を設置した。毎年11月3日には住民合同の慰霊祭を開催し、恵子さんの冥福を祈っている。慰霊祭には近隣住民も参加し、地域の絆を深める行事として定着している。恵子さんの悲劇を教訓に、住民同士の見守り活動も活発化している。
吉田恵子さんの遺族は現在、交通事故防止と女性の安全確保を訴える活動を行っている。恵子さんの事故を風化させないため、マンションの階段には注意喚起の看板を設置し、照明も増設された。恵子さんの死が無駄にならないよう、安全対策の向上に貢献している。
田中さんは2023年に結婚したが、新婚の妻にも恵子さんの話を伝えている。夫妻は「恵子さんが結んでくれた縁」として、毎年命日には花を供えている。妻は「恵子さんの分まで幸せになりたい」と話し、恵子さんの遺志を受け継いでいる。恵子さんの部屋跡には現在、子育て中の若夫婦が住んでいる。
元交際相手の山田さんは現在、他県で再婚して家庭を築いている。田中さんを通じて恵子さんの供養に参加し、「恵子さんには申し訳ないことをした」と謝罪の気持ちを表明している。現在も毎年、恵子さんの墓参りを続けており、「彼女の幸せを祈っている」と話している。
グリーンパレスの階段は現在、住民によって美しく装飾されている。恵子さんが好きだった季節の花が飾られ、「愛の階段」と呼ばれている。恋人たちがこの階段を通る時は、恵子さんの恋愛成就を祈る習慣が生まれた。恵子さんの恋は実らなかったが、今は多くの人の恋を見守る天使となっている。
