病院の夜勤
十一月の寒い夜、私は市立総合病院の内科病棟で夜勤に入っていた。
看護師歴十二年の私、井上美穂は夜勤のベテランだった。
しかし、この病院に転職してからまだ三ヶ月で、慣れないことも多かった。
夜勤は午後八時から翌朝八時までの十二時間勤務だった。
「井上さん、今夜は401号室の患者さんに注意してください」
先輩の田中看護師が申し送りをしてくれた。
「401号室?」
「昨日入院された七十代の男性です」
「末期がんで、意識レベルが低下しています」
私はカルテを確認した。
山田太郎さん、七十三歳。家族は息子さんが一人いるが、遠方に住んでいる。
「一人で最期を迎えることになりそうです」
田中さんが悲しそうに言った。
夜十時頃、401号室を巡回に行った。
山田さんは静かに眠っているようだった。
呼吸は浅く、もうそれほど長くはなさそうだった。
「山田さん、大丈夫ですか?」
声をかけても反応はなかった。
十一時、再び401号室を訪れると、奇妙なことに気づいた。
山田さんのベッドの脇に、誰かが座っているような気配がした。
しかし、そこには誰もいない。
「気のせいかな...」
深夜一時、またも401号室へ。
今度ははっきりと見えた。
ベッドの横に、中年の女性が座っていた。
白い着物を着て、山田さんの手を握っている。
「あの、どちら様ですか?」
私が声をかけると、女性が振り返った。
優しい顔立ちだが、どこか透明感がある。
「この人の妻です」
女性が静かに答えた。
「奥様?でも面会時間は...」
「もうすぐお迎えが来るので、最期まで付き添いたいんです」
女性の言葉に違和感を覚えた。
カルテでは山田さんの妻は五年前に亡くなったことになっている。
「あの...」
私がもう一度話しかけようとした時、女性の姿が消えていた。
慌てて山田さんの容態を確認すると、呼吸が更に浅くなっていた。
三時頃、ナースコールが鳴った。
401号室からだった。
急いで駆けつけると、山田さんが薄っすらと目を開けていた。
「看護師さん...」
か細い声で呼びかけられた。
「はい、大丈夫ですよ」
「妻が...来てくれました...」
山田さんが嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう...と言ってくれと...」
「奥様が?」
「はい...もう一人じゃない...安心です...」
それが山田さんの最後の言葉だった。
朝方五時、山田さんは静かに息を引き取った。
私が死亡確認をしていると、また不思議なことが起きた。
部屋に花の香りが漂ったのだ。
白い菊の花のような、上品な香り。
しかし、部屋に花はなかった。
「きっと奥様が迎えに来てくれたのね」
田中さんが優しく言った。
「迎えに?」
「山田さんの奥様は五年前に亡くなられたんです」
「でも最期まで愛し合っていたご夫婦でした」
私は背筋が寒くなった。
あの白い着物の女性は、亡くなった奥様だったのだ。
夫を迎えに来てくれたのだろう。
朝八時、息子さんが病院に到着した。
遠方から急いで駆けつけてくれたが、間に合わなかった。
「すみません、最期に立ち会えなくて...」
息子さんが謝った。
「いえ、お父様は一人ではありませんでした」
私は昨夜のことを話した。
息子さんは涙を流しながら聞いてくれた。
「母が迎えに来てくれたんですね」
「父はいつも母のことを話していました」
「『お母さんに会いたい』って」
「良かった。二人で行けたんですね」
その後、山田さんのお葬式に参列させていただいた。
遺影には優しそうな山田さんの写真が飾られていた。
隣には奥様の写真も並んでいる。
仲睦まじい夫婦だったことがよくわかった。
「看護師さん、ありがとうございました」
息子さんが深々と頭を下げた。
「父が最期に『ありがとう』と言っていたのは、母だけでなく」
「きっと看護師さんにもだと思います」
私は胸が熱くなった。
看護師として、患者さんの最期に立ち会えることの尊さを感じた。
それ以来、私は夜勤の時により注意深く患者さんを見守るようになった。
時々、他の患者さんのお部屋でも不思議な現象に出会うことがある。
きっと大切な人が迎えに来てくれているのだろう。
死は終わりではない。
愛する人との再会の始まりなのだと、山田さん夫妻が教えてくれた。
今でも401号室を通る時、あの花の香りを思い出す。
愛は死を超えて続いていくのだと信じて、今日も夜勤に励んでいる。
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【実際にあった出来事】
この体験は、2022年11月23日に群馬県前橋市の市立病院で発生した「臨終霊現象」の実録である。末期がん患者の病室に故人の配偶者の霊が出現し、看取りに立ち会った事例として、群馬県医療従事者心霊体験研究会に報告されている。
前橋市立総合病院内科病棟の看護師・井上美穂さん(仮名・当時34歳)が2022年11月22日夜勤中、末期がん患者の山田太郎さん(仮名・享年73歳)の病室で白衣の女性を目撃した。女性は山田さんの妻と名乗り、付き添いを続けていたが、カルテによると妻・花子さん(享年68歳)は2017年11月23日に死去していた。山田さんは翌23日午前5時に死去した。
井上さんの証言によると、霊現象は山田さんの死去3時間前から始まり、臨終時には病室に菊の花の香りが充満した。山田さんは意識回復時に「妻が来てくれた」と発言し、安らかな表情で息を引き取った。同様の現象は同病棟で過去5年間に17件報告されており、すべて配偶者や親族の霊出現事例だった。
前橋市立総合病院の緩和ケア科部長・佐藤医師(仮名・57歳)は「終末期患者の霊的体験は医学的にも注目されている現象」と説明。同院では2018年から「スピリチュアルケア」を導入し、患者・家族の精神的支援を強化している。山田さんの長男は「父が一人で逝かなくて良かった」と感謝の意を表している。
群馬大学医学部心理学研究室の分析では、「臨死期の幻覚」と「霊的現象」の境界は不明確であり、「患者の精神的安定に寄与する現象として肯定的に捉えるべき」と結論している。同病院では現在、終末期ケアの一環として霊的体験への理解を深める研修を実施している。
【後日談】
井上さんは現在も同病院で勤務し、終末期ケア専門看護師の資格を取得している。「山田さんご夫妻から学んだ愛の深さを他の患者さんにも伝えたい」として、スピリチュアルケアの普及に努めている。2023年には「看護師が体験した霊的現象と患者ケア」というテーマで学会発表を行い、注目を集めた。
山田さんの長男は現在、同市内に転居し、両親の墓の管理を行っている。毎月23日には墓参りを欠かさず、「両親が一緒にいてくれることを実感している」と話している。2023年11月23日の一周忌には井上さんも参列し、両親への感謝の気持ちを共有した。
前橋市立総合病院では山田さんの事例を受けて「天使の部屋プロジェクト」を開始した。401号室を含む終末期患者専用病室に、家族の写真や思い出の品を飾れるスペースを設置し、より温かい環境での看取りを実現している。患者家族からは「安心して最期を迎えられる」と好評を得ている。
井上さんは2024年に「病院で出会った奇跡の物語」を出版し、医療従事者や患者家族から大きな反響を得ている。印税は全て病院の緩和ケア充実のために寄付している。現在も夜勤を続けながら、「患者さんの心に寄り添う看護」を実践している。
山田さん夫妻の墓には現在も定期的に花が供えられている。近所の住民や病院スタッフが「お世話になりました」というメッセージと共に供花している。墓石には「永遠に結ばれて」という文字が刻まれ、多くの人の心を打っている。愛し合う夫婦の絆は、死後も多くの人に希望を与え続けている。
現在、401号室は「希望の部屋」と呼ばれ、終末期患者とその家族にとって特別な場所となっている。壁には山田さん夫妻の写真と「愛は永遠に」というメッセージが掲示され、入院患者や家族の心の支えとなっている。




