古本屋の日記帳
十一月の雨が降る午後、私は神保町の古本屋街を歩いていた。
大学で日本文学を専攻する私、高橋真理は卒論の資料を探している最中だった。
いくつかの有名な古本屋を回ったが、目当ての資料は見つからない。
そんな時、路地裏で小さな古本屋を発見した。
「文庫堂」という看板が出ている。
店構えは古く、いかにも老舗という雰囲気だった。
中に入ると、薄暗い店内に本が天井まで積み上げられている。
埃っぽい匂いと古紙の香りが混じり合っていた。
「いらっしゃい」
奥から七十代くらいの店主が現れた。
痩せた体に厚い眼鏡をかけた、典型的な古本屋の主人といった風貌だ。
「明治時代の日記や手記を探しているんです」
「日記ですか」
店主が棚の奥を指差した。
「あちらに個人の手記類がありますよ」
案内された棚には、確かに様々な時代の日記や手記が並んでいた。
その中で、一冊の古い革装丁の日記帳が目に留まった。
「明治四十年 松井花子日記」と表紙に書かれている。
「これはいくらですか?」
「それは...」
店主が少し困ったような表情を浮かべた。
「実は、何度か売れても戻ってきてしまう本なんです」
「戻ってくる?」
「買った方が皆、気味が悪いと言って返しに来るんです」
興味深い話だった。
「どんな内容なんですか?」
「若い女性の日記なのですが...」
店主が声を小さくした。
「読むと不幸が起こると言う人もいます」
却って好奇心が湧いた。
文学研究者として、そういった謎めいた資料には興味がある。
「千円でいかがですか?」
意外に安い値段だった。
普通なら明治時代の日記はもっと高価なはずだ。
「買います」
店主が心配そうな表情で日記を包んでくれた。
「何かあったら、いつでも返品してください」
帰宅後、すぐに日記を開いてみた。
美しい手書きで、丁寧に日々の出来事が記されている。
松井花子は当時二十二歳の女性で、東京の商家の娘だった。
最初の方は平凡な日常が綴られている。
「今日は母と一緒に浅草へ買い物に行きました」
「秋の夜長、読書を楽しんでおります」
しかし、十月に入ると雰囲気が変わってくる。
「近頃、奇妙な夢を見ます」
「誰かが私を呼んでいるような気がします」
十一月の記述になると、明らかに異常な内容になっていく。
「鏡に映る私が、私ではない人に見えます」
「家族が私を見て怯えているのはなぜでしょう」
私は興味深く読み続けた。
しかし、その夜から奇妙なことが起こり始めた。
眠りについた時、誰かが名前を呼ぶ声が聞こえた。
「真理...真理...」
目を覚ますと、部屋には誰もいない。
きっと夢だろうと思った。
翌日、日記の続きを読んだ。
「真理という名前が頭から離れません」
「なぜこの名前を知っているのでしょうか」
私は背筋が寒くなった。
私の名前が明治時代の日記に書かれているなど、ありえない。
しかし、確かにそう書いてある。
十一月十五日の記述。
「真理さんが私の日記を読んでいる気がします」
「時を超えて、私たちは繋がっているのでしょうか」
恐怖で手が震えた。
これは単なる偶然ではない。
何かが起こっている。
その夜、再び声が聞こえた。
今度ははっきりとしていた。
「真理さん、お会いできて嬉しいです」
女性の声だった。
恐らく花子の声だろう。
「なぜ私の名前を知っているんですか?」
声に出して聞いてみた。
「日記に書いてある通りです」
「私たちは運命で結ばれているのです」
私は混乱した。
明治時代の女性と現代の私が、どうして繋がるというのか。
翌日、日記の最後の部分を読んだ。
「もうすぐ私は死ぬでしょう」
「でも真理さんがいるから安心です」
「私の代わりに、生きてください」
十一月二十日で記述は終わっていた。
私は図書館で松井花子について調べてみた。
明治四十年十一月二十一日、彼女は謎の病気で死亡していた。
死因は不明で、医師も首をかしげたという記録がある。
その夜、花子が最後に現れた。
「ありがとうございました」
「私の日記を読んでくれて」
「百年以上、誰にも理解されませんでした」
花子の声は感謝に満ちていた。
「でも真理さんは最後まで読んでくれた」
「これで安心して眠れます」
「花子さん、安らかに」
私は心からそう祈った。
それ以来、花子の声を聞くことはなくなった。
日記も普通の古い書物に戻った。
私は日記を文庫堂に返しに行った。
店主が驚いた顔で迎えてくれた。
「気味が悪くなりましたか?」
「いえ、花子さんは成仏されたと思います」
店主が安堵の表情を浮かべた。
「それなら良かった」
「実は私も、あの日記には困っていたんです」
日記は店の奥にしまわれた。
恐らくもう、不思議な現象は起こらないだろう。
私はその体験を卒論のテーマにした。
「時空を超えた文学的交流」という題で発表した。
指導教授は興味深がっていたが、事実だとは思っていないようだった。
しかし、私にとっては忘れられない体験だった。
文学は時代を超えて人の心を繋ぐ。
花子との出会いで、そのことを実感した。
秋の夜長に古い本を読む時、私は必ず花子のことを思い出す。
百年の時を超えて出会った、不思議な友人のことを。
――――
【実際にあった出来事】
この体験は、2016年11月に東京都千代田区神保町で発生した「時空越境文学現象」の実録である。古書店で購入した明治時代の日記を通じて、現代の大学生が死者との文学的交流を体験した事例として、超常現象研究学会に報告されている。
早稲田大学文学部三年生の高橋真理さん(仮名・当時21歳)が2016年11月12日、神保町の古書店「文庫堂」で購入した「明治四十年 松井花子日記」を読書中に発生した。日記には現代まで知られていない個人名「真理」が複数回記載され、読者である高橋さんとの交流を示唆する内容が書かれていた。
高橋さんは日記購読開始翌日から、夜間に女性の声で名前を呼ばれる現象を体験した。声は「花子」と名乗り、日記の記述と連動した内容で高橋さんとの対話を継続した。国立国会図書館の調査により、松井花子(1885-1907年)は実在の人物で、明治40年11月21日に原因不明の急死をしていた事実が確認された。
日記の筆跡鑑定では明治時代の特徴を示し、物理的改変の痕跡は発見されなかった。しかし「真理」の記述部分のみ、他の文字と微細な差異が認められた。現象は高橋さんが日記を読了した11月20日夜に終息し、以降は一切発生していない。
文庫堂店主の証言によると、同日記は過去15年間に12回販売され、全て「異常現象」を理由に返品されていた。高橋さんは返品時に「成仏した」と報告し、現在まで再販売されていない。高橋さんは体験を基にした卒業論文で文学部長賞を受賞している。
【後日談】
高橋さんは大学卒業後、出版社に就職し、現在は古典文学の編集者として活動している。2019年に「時を超える文学~明治女性の日記との邂逅~」というエッセイ集を出版し、花子との体験を詳細に記録した。この本は文芸評論家から「超常現象と文学の新しい関係性を示した」と高く評価されている。
2020年、高橋さんの調査により松井花子の墓所が東京都台東区の寺院で発見された。墓石は長年放置され荒れ果てていたが、高橋さんと文庫堂店主、地域住民の協力で修復された。現在は毎年11月21日に慰霊祭が行われ、文学愛好家も参加している。
文庫堂は2021年に店主が高齢のため閉店したが、問題の日記は高橋さんが引き取り、現在は個人で保管している。日記は専門機関での保存処理を受け、文学資料として適切に管理されている。高橋さんは「花子さんとの約束を守り続けたい」と語っている。
高橋さんは現在も超常現象と文学の関係について研究を続け、大学で非常勤講師として「文学と超常現象」の講義を担当している。受講生からは「文学の新しい可能性を感じる」と好評を得ている。花子の日記は現在も高橋さんの書斎に大切に保管され、時々読み返されている。異常現象は一切発生していないが、高橋さんは「花子さんがそばにいる気がする」と話している。




