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怖い話  作者: 健二
★☆
46/116

潮鳴りの教室


 夜の海に耳を澄ませば、波の向こうで誰かが名を呼ぶ──そう噂されるのは、東北のとある漁村に残された木造校舎だ。2011年3月の東日本大震災で町は壊滅的な被害を受け、校舎は避難所として数日だけ使われたが、津波で押し寄せた泥と瓦礫に浸食され、やがて立入禁止となった。だが真夏になると、潮の匂いが濃くなる深夜0時きっかりに、校舎の二階の窓から赤いランドセルを背負った少女が手を振る──町の人々はそう囁く。


 私は週刊誌の取材記者として、この噂を検証するために現地へ赴いた。取材した証言の多くは「夏の夜だけ聞こえる鈴の音」と「廊下を流れる冷たい海水」の二点で一致していた。海水が廊下を流れるなど現実にはあり得ないが、不思議と証言は揃う。午後九時、私は懐中電灯とボイスレコーダーを携え、朽ちた校舎の正面玄関へ足を踏み入れた。


 玄関の引き戸は半開きのまま固着し、開閉するたびに潮風の塩で軋んだ。「ギイイ…」という音が、蝉の鳴き止む夜の湿度に絡みつく。中は海藻の腐臭と古い木材の匂いが混ざり、まるで海底に沈んだ船の内部のようだった。私は取材用メモに現在時刻と温度を書き込み、廊下を照らす。床板は踏むたびにミシリと鳴るが、腐りきってはいない。 


 吹き抜けの階段を上がり、二階の教室の前に立った。ここで赤いランドセルの少女が目撃されるという。窓からは月明かりが差し込み、波打ち際で跳ねる遠い光が反射している。私は息を殺してボイスレコーダーを作動させた。


 0:00──。廊下の奥で「チャリン…」と鈴の音が鳴った。風もないのに、澄んだ金属音だけが身体の芯を震わせる。私は意を決し、教室の戸を開ける。黒板の前に、水の筋が光っていた。まるで廊下から教室へ、潮が引き込まれるように。


 床に膝をついた瞬間、ひやりとした水が指先を撫でた。ライトを向けると、確かに濡れている。だが外から流れ込む隙間など見当たらない。私は録音を続けながら黒板を照らした。そこには白いチョークで大きく数字が書かれていた。


 一 三 ○ 三 。一 三 一 一


 それは震災の日付「2011.3.11」を縦横に混ぜた、子どもの落書きのようだった。先ほどは確かに何もなかったはずだ。私が凍り付くと、背後でばしゃ、と水音。振り向くと廊下の暗闇が揺らいでいる。波が立つように。


 と、足首を誰かに掴まれた。反射的に跳び退くと、そこには黒い海水が溜まり、細い腕が揺らめく。水面から顔を出したのは、小学二年生ほどの少女だった。眉はなく、瞳は白く濁り、口は開きっぱなしで海水を吐いている。ランドセルだけが鮮紅色で、月光を弾くほど異様に艶やかだった。


「……ここで、待ってたの」


 少女の唇が動いた瞬間、教室の窓が一斉に開き、潮風が轟音とともに吹き込んだ。廊下の先から漂った磯の匂いが、震災直後に町を覆った腐臭と同じだと直感した。私は後ずさりし、転げるように階段を降りる。すると階段にも水が滝のように流れ出していた。スニーカーは重く水を吸い、逃げ場はすべて海へと変わる。


 玄関の引き戸を開け放つと、そこはもう校舎の外ではなかった。真夜中の教室、しかも黒板の前に戻っている。ループ──? 理解が追いつかない。背中に冷たい掌が触れ、肩越しに振り返ると、無数の子どもたちが静かに立っていた。制服も私服も泥に染まり、口からは水が滴っている。


 その時、私はふと思い出した。震災直後、ニュース映像の背景で小さな女の子が泣きながら「ランドセル探して」と叫んでいた。土地の資料を調べると、その子は津波に流され、遺体は見つからなかったという。避難所になったこの校舎で、名前を書いたばかりの新しいランドセルを誰かに届けたくて──。


 子どもたちが一歩ずつにじり寄るたび、教室の水位が上がる。腰まで浸かった私は録音を胸ポケットに押し込み、最後の抵抗として叫んだ。


「分かった! 君たちの声を外に伝える。絶対に忘れさせない!」


 すると少女は首を傾げ、ランドセルの蓋を開けた。中には濡れたノートが一冊。水に滲みながらも、ひらがなでこう書かれている。


「あしたのじゅぎょう『にんげんはうみをこわがる』」


 次の瞬間、黒い波が天井まで立ち上がり、私は呑み込まれた。


     * * *


 目が覚めたのは病院のベッドだった。地元の漁師が夜明け前、校舎前の砂浜で倒れている私を見つけたという。機材はずぶ濡れだったが、ボイスレコーダーだけが奇跡的に無事だった。再生すると、0:00に合わせた私の足音のほか、子どもの笑い声、水音、そして最後に少女の囁きが残っていた。


「つぎのなつも、きてね」


 退院後、私は記事を書いた。震災で失われた名前のない小さな命と、その叫び。掲載号は発売日を迎え、反響は大きかった。だが翌週、編集部へ匿名の封筒が届いた。中には濡れたノートの切れ端と、赤いチョークで書かれた数字があった。


 二 ○ 二 四 。一 三 一 一


 2024年8月11日──今年の終戦記念日まで、あと四日。あの校舎は解体が決まっている。だが夏の深夜0時、海の底からあの鈴の音が聞こえたなら、私は再びペンとレコーダーを持って向かうだろう。伝えるために。あるいは、もう戻れないことを知りながら。


 潮鳴りが今夜も、私の名を呼んでいる。

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