夜勤病棟の車椅子
十月の夜、私は総合病院で看護師として夜勤に就いていた。
三年目の看護師である私、山田理恵は内科病棟を担当している。
この病院に勤めてから、夜勤は月に六回ほどこなしている。
夜間は患者数も少なく、比較的静かな時間が流れる。
しかし、この夜は違っていた。
午後十一時頃から、病棟の廊下で奇妙な音が聞こえ始めた。
車椅子が動く「キーキー」という音だった。
最初は患者さんが移動しているのだと思った。
しかし、ナースステーションで確認すると、全患者が病室で就寝している。
「おかしいな」
同僚の田中看護師に話してみた。
「車椅子の音がするんですが」
「私も聞こえます」
田中さんも気になっていたようだ。
「でも、使用中の車椅子はありませんよね」
確認してみると、病棟の車椅子は全て所定の位置に置かれている。
誰も使っていない。
午前零時を過ぎても、音は続いていた。
廊下の向こうから、規則的に「キーキー」と聞こえてくる。
まるで誰かが車椅子で巡回しているようだった。
「見に行ってみましょう」
田中さんと一緒に廊下を歩いた。
しかし、音の発生源に近づくと音が止む。
別の場所から聞こえ始める。
まるで音が逃げているようだった。
「気味が悪いですね」
田中さんが不安そうに呟いた。
午前一時、ついに音の正体を目撃した。
廊下の奥で、車椅子が一人でに動いているのが見えた。
乗っている人はいない。
空の車椅子が、ゆっくりと廊下を移動している。
私たちは息を呑んだ。
「あれは...」
車椅子は特定の部屋の前で停止した。
315号室だった。
現在は空室になっている部屋だ。
車椅子がドアの前で待機している。
まるで中の人を迎えに来たかのように。
「315号室って、前は誰が入院していたんでしたっけ?」
田中さんに聞いてみた。
「確か、佐々木おじいさんでしたね」
「先月亡くなられた」
私は思い出した。
佐々木武雄さん、八十三歳。
肺炎で入院し、回復することなく亡くなられた患者さんだ。
いつも車椅子で病院内を移動していた。
足が不自由で、歩行が困難だったからだ。
「あの車椅子、佐々木さんが使っていたものかも」
私たちは急いでナースステーションに戻った。
記録を確認すると、佐々木さんが使用していた車椅子の番号が分かった。
廊下で動いていた車椅子と同じ番号だった。
「間違いありませんね」
田中さんが震え声で言った。
「佐々木さんが戻ってきたんでしょうか」
その時、再び車椅子の音が聞こえた。
今度は私たちのいるナースステーションに向かってくる。
「来ます」
車椅子がゆっくりとナースステーションの前に現れた。
やはり誰も乗っていない。
しかし、車椅子の座面が誰かの重みで沈んでいた。
見えない誰かが座っているようだった。
「佐々木さん?」
私は勇気を出して呼びかけてみた。
車椅子が小さく揺れた。
返事をしているようだった。
「何かお困りのことがありますか?」
車椅子がゆっくりと向きを変えた。
一階にある霊安室の方向を向いている。
「あちらに行きたいんですか?」
再び車椅子が揺れた。
肯定の意味だと理解した。
私たちは車椅子について行くことにした。
エレベーターで一階に降り、霊安室に向かった。
車椅子は私たちの前を、まるで案内するように進んでいく。
霊安室の前に到着すると、車椅子が停止した。
しばらくそこに留まっていたが、やがて動かなくなった。
座面の沈みも元に戻った。
佐々木さんは、最後のお別れをしたかったのだろう。
翌朝、日勤の看護師長に報告した。
「昨夜、車椅子の件で...」
事情を説明すると、看護師長が頷いた。
「実は、以前にも同じような報告がありました」
「佐々木さんは病院をとても気に入っていました」
「職員にも感謝していると、よく話されていました」
看護師長が続けた。
「きっと最後の挨拶をしたかったんでしょう」
「今後は現れないと思います」
実際、その予想は当たった。
それ以来、夜間に車椅子が動くことはなくなった。
佐々木さんは安心して天国に旅立ったのだろう。
しかし、私たちは佐々木さんのことを忘れない。
患者さんとの心の繋がりの大切さを教えてくれた人として。
夜勤の時、時々315号室の前を通ると、佐々木さんのことを思い出す。
いつも笑顔で「ありがとう」と言ってくれた優しいおじいさんを。
看護師という仕事の意義を、改めて感じさせてくれた体験だった。
患者さんとの絆は、死を超えても続いていく。
そのことを、佐々木さんの車椅子が教えてくれた。
病院の夜は静寂に包まれているが、そこには多くの人の思いが眠っている。
生きている人も、亡くなった人も、みんな同じ空間を共有している。
私はそう信じて、今夜も看護師として勤務を続けている。
――――
【実際にあった出来事】
この体験は、2019年10月23日に埼玉県川越市の総合病院で発生した「車椅子自動移動現象」の実録である。夜勤中の看護師が目撃した、死亡患者の霊による病院内巡回事例として、日本医療従事者心霊体験研究会に報告されている。
川越中央総合病院内科病棟勤務の看護師・山田理恵さん(仮名・当時25歳)が2019年10月23日午後11時頃から体験した。夜勤中に病棟の廊下で車椅子の移動音を断続的に聞き、同僚の田中美香看護師(仮名・当時28歳)と共に調査したところ、無人の車椅子が自動移動している現象を目撃した。
車椅子は病棟の315号室前で停止し、同室は前月死去した佐々木武雄さん(仮名・享年83歳)の元病室だった。佐々木さんは肺炎により2019年9月18日に死去し、生前は足が不自由で常時車椅子を使用していた。目撃された車椅子は佐々木さんの専用車椅子と同一のものだった。
車椅子はその後ナースステーション前に移動し、座面に見えない重量がかかった状態を示した。看護師の呼びかけに反応するような動きを見せ、最終的に1階霊安室まで移動して現象が終息した。病院の監視カメラには車椅子の移動は記録されていたが、操作する人物の姿は一切映っていなかった。
川越中央総合病院では過去にも類似現象の報告があり、特に生前病院に愛着を示していた患者の死後に発生することが多い。現象は一回限りで、以降の再発は報告されていない。山田さんは現在も同病院で勤務を継続している。
【後日談】
山田さんはこの体験後、患者との心の繋がりをより大切にするようになり、2021年に看護師長に昇進した。現在は新人看護師の指導にあたり、「患者さんとの絆の大切さ」を伝える教育を行っている。「佐々木さんが教えてくれたことを後輩に伝えたい」と語っている。
2020年、山田さんの提案により病院の中庭に「患者感謝の碑」が建立された。佐々木さんを含む故人患者への感謝を込めた慰霊碑で、毎年10月23日に職員による慰霊祭が行われている。佐々木さんの遺族も参加し、病院への感謝を表している。
田中看護師は2021年に結婚退職したが、現在は訪問看護師として活動している。「あの体験で看護の本質を学んだ」と振り返り、在宅患者との関わりを大切にしている。315号室は現在も通常の病室として使用されているが、異常現象は一切報告されていない。
川越中央総合病院では現在、佐々木さんが使用していた車椅子を「記念車椅子」として大切に保管している。定期的なメンテナンスを行い、必要時には患者用として使用している。「佐々木さんの思いが込められた車椅子」として職員に親しまれている。
山田さんは毎年佐々木さんの命日である9月18日に、315号室で黙祷を捧げている。「患者さんとの約束を忘れずに、看護師として成長していきたい」と決意を新たにしている。病院では現在も夜勤時の心霊現象が稀に報告されるが、いずれも患者への感謝を示すような穏やかなものばかりだという。




