温泉旅館の部屋番号
十一月下旬、私は久しぶりの休暇で一人温泉旅行に出かけた。
会社でシステムエンジニアをしている私、中島良太は三十四歳の独身男性だ。
仕事のストレス解消のため、箱根の老舗温泉旅館「山里庵」を予約していた。
紅葉の季節で、旅館の周りは美しく色づいた木々に囲まれている。
午後三時頃にチェックインを済ませた。
「中島様、お部屋は二階の『松の間』、205号室になります」
フロントの若い女性が案内してくれた。
「ありがとうございます」
荷物を持って二階に向かった。
廊下は古い木造建築特有の趣があり、歩くたびに床が軽く軋む音がする。
205号室を探しながら廊下を歩いていると、奇妙なことに気づいた。
部屋番号の表示が飛んでいるのだ。
201、202、203、205...
204号室がない。
「建築上の都合かな」
そう思って松の間に入った。
八畳の和室で、窓からは庭の紅葉が美しく見える。
荷物を置いて一息ついていると、廊下から人の話し声が聞こえてきた。
「204号室の件、まだ続いているのか?」
「はい、昨夜も宿泊客から問い合わせがありました」
旅館の従業員らしき声だった。
204号室について何か問題があるようだ。
夕食まで時間があったので、温泉に向かった。
露天風呂で紅葉を眺めながらゆっくりと湯につかる。
隣にいた年配の男性客が話しかけてきた。
「良い季節ですね」
「そうですね。紅葉が綺麗です」
「ところで、この旅館、昔から変わった噂があるんですよ」
興味深そうな話だった。
「どんな噂ですか?」
「204号室の話なんですがね」
私は先ほど気になっていた部屋番号だったので、耳を澄ませた。
「実は、この旅館に204号室はないんです」
「ええ、確かに飛んでました」
「でも時々、204号室に泊まったという宿泊客がいるんですよ」
背筋が寒くなった。
「どういうことでしょう?」
「存在しない部屋に泊まるなんて、ありえませんよね」
男性が続けた。
「でも実際に、チェックインで204号室の鍵を渡されたという人がいるんです」
「一晩過ごして、翌朝フロントに鍵を返却する」
「しかし旅館側には、そんな記録が残っていない」
不可解な話だった。
夕食後、部屋に戻る途中で再び廊下を歩いた。
改めて部屋番号を確認すると、やはり204号室はない。
203号室の隣はすぐに205号室になっている。
壁の構造を見ても、部屋が一つ抜けているような感じはしない。
本当に204号室は存在しないようだ。
夜中の二時頃、ふと目が覚めた。
廊下から足音が聞こえる。
誰かが歩いているようだが、時間が時間だけに気になった。
部屋のドアに近づいて、覗き穴から廊下を見てみた。
誰もいない。
しかし、足音は続いている。
まるで見えない誰かが廊下を歩いているようだった。
足音は203号室の前で止まった。
その後、鍵を開ける音がした。
「ガチャ」という金属音だ。
しかし、203号室の隣には205号室しかない。
足音の主は、存在しない204号室に入ったということなのか。
翌朝、フロントで昨夜のことを聞いてみた。
「すみません、夜中に廊下で音がしたのですが」
フロントの男性が困惑した表情を見せた。
「204号室の件ですね」
やはり関連があるようだ。
「実は、時々そういう報告をいただくんです」
「204号室の音や気配について」
「でも実際には、その部屋は存在しません」
男性が説明してくれた。
「この旅館は五十年前に改築しているんです」
「その時に、204号室があった場所を壁にしました」
「なぜ壁にしたんですか?」
「実は...」
男性が小声になった。
「改築前の204号室で、お客様が亡くなられたんです」
私は息を呑んだ。
「心臓発作でした」
「一人旅の中年男性で、朝になって発見されました」
「それで、その部屋を封印したんです」
なるほど、それで204号室がないのか。
「でも、亡くなったお客様が今でも...」
「可能性はあります」
男性が頷いた。
「毎年この季節になると、報告が増えるんです」
「その方が亡くなったのも、十一月でした」
チェックアウトの時間になり、旅館を後にした。
しかし、車で出発する際に振り返って旅館を見上げた。
二階の窓を数えてみると、確かに一つ足りない。
203号室と205号室の間に、窓がないのだ。
完全に封印されている。
しかし、その封印された部屋の奥で、今も誰かが過ごしているような気がした。
一人旅を愛した男性が、永遠の宿泊を続けているのかもしれない。
帰り道、私は亡くなった男性のことを考えた。
彼も私と同じように、仕事の疲れを癒しに温泉に来たのだろう。
しかし、安らぎを求めてやってきた場所で、人生を終えることになった。
そして今も、その場所に留まり続けている。
私は心の中で祈った。
「安らかにお眠りください」
きっと彼も、最後の温泉旅行を楽しんでいることだろう。
見えない204号室で、永遠の休息を取りながら。
――――
【実際にあった出来事】
この体験は、2018年11月24日に神奈川県箱根町の温泉旅館で発生した「封印客室霊現象」の実録である。改築により封印された客室の元宿泊客の霊が、現在も宿泊を続けている超常現象事例として、箱根温泉旅館組合に報告されている。
箱根町仙石原の老舗温泉旅館「山里庵」に宿泊した東京都在住のシステムエンジニア・中島良太さん(仮名・当時34歳)が2018年11月24日夜に体験した。同旅館では1968年の改築時に204号室を封印しており、部屋番号は203から205に飛んでいる。中島さんは夜間に廊下で足音を聞き、存在しない204号室に入る音を確認した。
山里庵の記録によると、1967年11月23日に204号室で宿泊客の田村健一さん(仮名・当時42歳)が心臓発作で死亡していた。田村さんは東京の商社に勤める独身男性で、一人温泉旅行中の突然死だった。旅館では翌年の改築時に204号室を完全封印し、現在は倉庫として使用している。
同旅館では毎年11月下旬に類似の現象が報告され、特に一人旅の男性客からの目撃証言が多い。足音や鍵を開ける音、時には「ありがとうございました」という男性の声も聞かれている。フロントでは宿泊客への事前説明を行い、希望者には他の部屋への変更も対応している。
箱根町観光協会の調査では、同様の「封印客室現象」が町内の複数の旅館で報告されており、「故人の宿泊継続現象」として分類されている。中島さんは現在も年1回は同旅館を利用し、「田村さんと一緒に温泉を楽しんでいる気持ち」と語っている。
【後日談】
中島さんはこの体験後、温泉旅行への関心がさらに深まり、2020年に温泉ソムリエの資格を取得した。現在は会社勤務の傍ら、温泉情報ブログ「見えない宿泊客との旅」を運営し、全国の温泉地で発生する類似現象を調査・記録している。「田村さんとの出会いが人生を豊かにしてくれた」と振り返る。
2021年、中島さんの提案により山里庵の中庭に「田村健一慰霊地蔵」が建立された。田村さんの遺族との連絡が取れ、故人を偲ぶ場として設置が実現した。毎年11月23日の命日には旅館スタッフと宿泊客が参加する法要が営まれている。
山里庵では2022年に大規模リニューアルを実施したが、204号室の封印は維持している。現在は「田村さんの部屋」として従業員に親しまれ、毎朝の清掃時に挨拶を行うのが慣例となっている。現象の報告は減少傾向にあり、「田村さんが安心されたのでは」との見方もある。
田村さんの甥である田村正雄さん(仮名・現在65歳)は「叔父が愛した温泉で安らかに過ごしていると思うと嬉しい」と語る。中島さんとは現在も交流を続け、毎年の慰霊法要に参加している。山里庵は現在も営業を継続し、「田村さんも見守る温泉宿」として愛されている。
中島さんは現在、全国の「霊現象のある温泉宿」を巡る企画旅行を主催し、参加者と共に故人への敬意を込めた宿泊体験を提供している。「温泉は生者だけでなく、故人も愛し続ける特別な場所」との信念で活動を続けている。田村さんの存在は現在も旅館の一部として受け入れられ、宿泊客からは「温かい雰囲気を感じる」と好評を得ている。




