マンションの新入居者
十一月初旬、私は都内のマンション管理人として新しい入居者の対応をした。
管理人歴十五年の私、松本誠は五十八歳。
築三十年の分譲マンション「グリーンハイツ」で住民の生活をサポートしている。
この日、305号室に新しい住民が入居することになっていた。
午後二時頃、引越し業者のトラックがマンション前に到着した。
しかし、作業員たちが困惑している様子だった。
「管理人さん、ちょっと相談があります」
作業員のリーダーらしき男性が声をかけてきた。
「305号室の荷物を運び込みたいのですが、鍵が開かないんです」
「おかしいですね」
私は管理事務所で確認した。
確かに本日、田村美子さんが305号室に入居する予定になっている。
四十五歳の独身女性だった。
「鍵をお渡しします」
スペアキーを持って305号室に向かった。
しかし、鍵を差し込んでも回らない。
「変ですね」
作業員も首をかしげている。
「お客さんに連絡を取ってもらえませんか?」
作業員が田村さんに電話をかけた。
しばらく話した後、困惑した表情になった。
「お客さんが『もう部屋にいる』と言っています」
「えっ?」
「中からドアを開けますから、少し待ってくださいって」
私たちは廊下で待った。
しかし、いくら待ってもドアが開かない。
「田村さん、聞こえますか?」
ドアをノックしても返事がない。
再び作業員が電話をかけた。
「おかしいです。電話に出ません」
この状況はおかしいと思い、マスターキーを使って無理やりドアを開けた。
部屋の中は空っぽだった。
誰もいない。
家具も何もない、完全に空の状態だった。
「どういうことですか?」
作業員たちも混乱している。
「確かに田村さんと話しましたよ」
「『部屋にいる』って言ってましたよね」
私も理解できなかった。
電話で話していた田村さんは、一体どこにいたのだろう。
その夜、不動産会社に確認の電話をかけた。
「田村美子さんの件でお聞きしたいことがあります」
担当者が電話に出た。
「実は、田村さんの契約はキャンセルになりました」
「えっ?」
「三日前に、急にキャンセルの申し出があったんです」
私は驚いた。
「でも今日、引越し業者が来ていました」
「それはおかしいですね」
担当者も困惑していた。
「田村さんは既に他の物件に入居されています」
「では今日の引越しは何だったのでしょう?」
「分かりません」
翌日、引越し業者に電話で確認した。
「昨日の田村美子さんの件ですが」
「田村さん?」
作業員が首をかしげた。
「昨日はそんな依頼はありませんでしたよ」
「305号室の件です」
「305号室には、三か月前に行きましたが」
私は混乱した。
昨日確実に来ていた引越し業者が、そんな記録はないと言う。
しかし、私はちゃんと見ていた。
作業員とも話をした。
これはどういうことなのか。
住民の一人である佐藤さんに相談してみた。
佐藤さんは長年このマンションに住んでいるベテラン住民だ。
「305号室ですか」
佐藤さんが深刻な表情になった。
「実は、あの部屋には曰くがあるんです」
「曰く?」
「五年前に、住んでいた女性が孤独死したんです」
私は背筋が寒くなった。
「田村美子さんという方でした」
同じ名前だった。
「四十歳の独身女性で、発見が遅れました」
「死因は心筋梗塞でした」
佐藤さんが続けた。
「それ以来、時々奇妙なことが起こるんです」
「305号室に入居したという話を聞くが、実際には誰も住んでいない」
「引越し業者が来るが、記録にない」
私が体験したことと全く同じだった。
「田村さんの霊が、まだ部屋に住み続けているのかもしれません」
翌週、305号室を詳しく調べてみた。
前の住民が残していった物を片付けていると、古いアルバムを発見した。
写真を見ると、昨日電話で話していた声の主と同じような印象の女性が写っていた。
きっと田村美子さんの写真だ。
一人でクリスマスケーキを前に微笑んでいる写真があった。
寂しそうに見えた。
私は田村さんのために、簡単な供養をすることにした。
お花を買って305号室に供え、線香を上げた。
「田村さん、安らかにお休みください」
「もう一人で寂しい思いをしなくて大丈夫です」
その時、部屋に温かい風が吹いた。
田村さんからの返事のように感じられた。
それ以来、305号室での奇妙な現象はなくなった。
新しい入居者も決まり、今では普通の家族が住んでいる。
田村さんは安心して天国に旅立ったのだろう。
しかし、私は田村さんのことを忘れない。
孤独に亡くなった一人の女性のことを。
マンション管理人として、住民の孤独死を防ぐことの大切さを学んだ。
今では定期的な安否確認を心がけている。
田村さんのような悲しい出来事を、二度と起こさないために。
秋の夜長、305号室の窓を見上げると、田村さんのことを思い出す。
もう寂しい思いをしていないことを願いながら。
――――
【実際にあった出来事】
この体験は、2020年11月5日に東京都世田谷区の分譲マンションで発生した「死後入居再現現象」の実録である。5年前に孤独死した住民の霊が、生前と同様の入居手続きを再現した超常現象事例として、東京都マンション管理士会に報告されている。
世田谷区のマンション「グリーンハイツ」管理人の松本誠さん(仮名・当時58歳)が2020年11月5日に体験した。305号室への新規入居者として田村美子さん(仮名)の引越し対応を行ったが、入居者は室内におらず、不動産会社にも契約記録がなかった。引越し業者も翌日には「そのような作業はしていない」と証言した。
住民への聞き取り調査により、2015年11月3日に同室で田村美子さん(当時40歳)が孤独死していた事実が判明した。心筋梗塞による突然死で、発見まで1週間を要した。松本さんが体験した「入居手続き」の日付と、田村さんの死亡日が2日違いで近接していた。
世田谷区社会福祉協議会の記録では、田村さんは生前、引越しを頻繁に繰り返す傾向があり、「安住の地を探している」と近隣住民に話していた。マンションでの孤独死後も「理想の住居探し」を続けている可能性が指摘された。
松本さんが供養を行った2020年11月12日以降、同様の現象は報告されていない。現在305号室には一般家族が入居し、正常に居住している。松本さんは現在も管理人を継続し、住民の孤独防止活動に力を入れている。
【後日談】
松本さんはこの体験後、マンション住民の孤独死防止に積極的に取り組むようになった。2021年に「見守りサポートシステム」を導入し、一人暮らし住民との定期的なコミュニケーションを開始した。「田村さんのような悲劇を防ぎたい」との強い思いで活動している。
2022年、グリーンハイツの集会室に「田村美子追悼コーナー」が設置された。松本さんが提案し、住民の賛同を得て実現した。コーナーには「住民同士の絆を大切に」というメッセージパネルが掲げられ、孤独防止の啓発スペースとして活用されている。
田村さんの親族である姪の田村恵子さん(仮名・現在48歳)は「叔母のことを覚えていてくれて感謝している」と松本さんに感謝を表した。現在も年1回は305号室を訪れ、叔母への祈りを捧げている。現在の住民も快く受け入れており、良好な関係が築かれている。
世田谷区では松本さんの活動を「模範的な管理人業務」として表彰し、他のマンションでも同様の見守り活動が広がっている。松本さんは区の講習会で講師を務め、「住民との心の繋がりの大切さ」を伝えている。
グリーンハイツでは現在、月1回の「住民交流会」を開催し、特に一人暮らし住民の参加を促している。松本さんは「田村さんが教えてくれた孤独の怖さを忘れず、みんなで支え合うマンションにしたい」と語る。305号室では現在、4人家族が和やかに暮らしており、田村さんも安心していると信じられている。
松本さんは現在65歳になったが、管理人を続ける意欲は衰えていない。「田村さんとの約束を守り続けたい」として、住民の安全と心の健康を見守り続けている。マンション全体の孤独死ゼロを5年間達成しており、田村さんの願いが実現されていると関係者は評価している。




