表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怖い話  作者: 健二
縺ゅ↑縺溘′辟。莠九↓謌サ繧後k繧医≧縺ォ
45/494

遺留灯(いりゅうとう)の尾根


 八月十二日。標高一千メートルを越える御巣鷹の尾根は、昼でも蝉の声より濃い静寂が張りついている。私はドキュメンタリー制作会社に勤める音声担当・中原直哉(三十五歳)。今年の夏、上司から一枚の古い8ミリフィルムを渡されたことが、ここへ来た始まりだった。


 フィルムには、1985年に墜落した日本航空123便の現場で撮られた記録が映っている。撮影者は、事故当夜に動員された群馬県多野郡の消防団員・杉本昌也。公式記録では十二日深夜二時頃、遺体収容所前で心臓発作を起こし殉職したとある。だが、杉本の荷物から回収されたこのフィルムは、長らく家族にも公開されず、先月遺族の手を経て私の会社へ託されたのだ。


 再生すると、崩れた山肌を縫うように散乱する機体残骸、そして揺れるカンテラの灯が映る。その灯が画面左端に移動した瞬間、暗闇の奥から幾つも光点がにじみ出た。炎でも蛍でもない。霧越しにこちらへ揺れる、人の手のひらほどの白い光。杉本の荒い息遣いと、「まだ…いる…聞こえないのか…」という独白で映像は途切れる。以降は未撮影。


 尾根に残る慰霊碑には、毎年八月十二日の夜十一時半から数分間だけ、林の奥で白い光が漂うという噂がある。地元の駐在所員や登山者が複数証言しているが、公式には「LEDライトの錯覚」と一蹴されている。私は音響機材を持ち込み、実際にその光を確かめ、録音しようと決めた。


     ◇


 十二日二十一時過ぎ、私は尾根手前の登山道入口に着いた。駐車場には、慰霊登山を終えた遺族らのワゴン車が一台、ヘッドライトを落として停まっている。挨拶を交わすと、年配の女性が「今夜は月が隠れるから、灯りがよく見えるかもしれませんね」とだけ言い、車に乗り込んだ。誰も止めない。坂を踏みしめるたび、土の下からひんやりした空気が上がってくる。


 十一時二十分。石の慰霊碑前に到着。蝉は鳴き止み、遠雷の残響だけが尾根に絡む。私は三脚の上にガンマイクを据え、傍らに昭和の火打ち石式カンテラを置いた。杉本が使っていた型番と同じ道具だ。レコーダーをスタンバイさせ、息を潜める。


 十一時三十分。林の奥で乾いた枝の折れる音。マイクのレベルメーターがわずかに動いた。風はない。湿気を含む空気が耳たぶにまとわりつく。ライトを向けるが、木々が密集し、先は黒い壁だ。


 十一時三十四分。闇の中央に、白い楕円がふっと浮いた。私は瞬きすら忘れた。楕円は人の顔ほどの大きさで、火ではなく、蛍光灯にも似ない。強いて言えば、霧の中で遠くの街灯を見た時のような、拡散する淡い輝きだ。ひとつ、ふたつ、みっつ──数を増やすにつれ、ざわりと葉が震え、土の匂いに金属の錆が混じる。


 レコーダーのピークランプが赤く点滅。イヤホン越しに、かすかなコーラスのような声が重なって聴こえる。単語は判別できないが、音域は子どもの囁きに近い。私はマイクを向けたまま、無意識にカンテラを掲げた。すると光の群れが、磁石に引かれるようにこちらへ寄ってくる。カンテラの炎が一瞬、蒼白に撥ね、芯が千切れて落ちた。炎は消えたのに、辺りは白く照らされ続けている。


 声が輪郭を帯び始める。


「ま……だ……」


「さ……む……い」


 飛行機事故の時刻は、十八時五十六分。発見まで十四時間。 救助が遅れ、翌朝になっても山中で生きていた人がいた。寒い、と弱い声で訴え続けた子どもの生存者が、回収作業員の証言に残る。私は喉が震え、声が出なかった。身体の芯まで冷え、汗が蒸発してゆく。


 ふと、足元で水の跳ねる音。山の稜線に川などない。ライトを向けると、土の上に黒い液体が溜まっていた。ジェット燃料を思わせる油の臭いが鼻を刺す。靴底が沈み、バランスを崩した瞬間、背後から腕を掴まれた。振り返ると、真っ黒に焦げた消防服を着た男が立っている。ネームタグには「杉本」。焼けただれたヘルメットの下、目だけが白く、私を覗き込む。


「まだ、いますよね…」 


 それは声ではなく、胸腔の内側に直接響く呻きだった。男は私の手首を握ったまま、林の奥へ引きずろうとする。私は必死に抵抗し、イヤホンを外した。その途端、囁きが耳の外側の空気に漏れ出したように、周囲の木々からも「さむい」「まだ」という声が湧く。林の奥で白い光は蠢き続け、やがてひとつの大きな塊に集まり、人影の輪郭を象った。


 高度八メートルあたりに、胴体の破片が突き刺さったと報告書にあった。光の影はちょうどその高さに漂う。杉本の腕の力が強まる。手首が軋む音と同時に、レコーダーが地面へ落ち、燃料混じりの泥水を吸った。ピーというノイズが辺りにこだまし、私は反射的にカンテラを振り上げた。ガラスが割れ、灯油が散る。炎は一瞬で尾根の空気を焼き、杉本の影を炙り出した。だが男は燃えず、ただ白煙のように揺らいで消えた。


 直後、空気が真空になったように静まり返る。白い光も声も跡形なく途絶えた。残されたのは壊れた機材と、まだ生温い泥水だけ。私は膝をつき、尾根の冷気を吸い込みながら、涙と汗の区別もなく嗚咽した。


     ◇


 下山後、溜息交じりにレコーダーを確認すると、最初の二十分は蝉と風の音だけ。問題は二十三時三十四分以降だ。ホワイトノイズの奥で、確かにコーラスが重なり、その周波数をスペクトラムで可視化すると、縦軸に奇妙な形が浮かぶ。アルファベットの「SOS」に酷似していた。加えて、私が聴いた杉本の呻き──「まだ、いますよね…」という部分が歪んだ波形で残っていた。


 フィルムを託してくれた杉本の遺族に、この音を聞かせるべきか。悩んだ末、私はデータを外付けドライブへ移した。だが翌朝、会社の編集室でドライブを開くと、フォルダは空だった。ラベル面には泥の指紋が一つ。私の指紋ではない向きで、曇り硝子のように貼りついていた。


 あの夜、尾根で灯った白い光を、現地の人は「遺留灯」と呼ぶらしい。まだ帰路を見つけられない魂の、微かな目印。私はそれを映像に、音に、残す使命があると思っていた。しかし、彼らはただ、寒さを訴え、誰かを待ち続けているのだ。


 今年も八月十二日が巡る。山へ戻るべきか、迷い続けている。もし行くなら、今度は灯油のカンテラではなく、せめて分厚い毛布を背負っていくつもりだ。

 遺留灯が、あの尾根の闇を流れる限り。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ