病院の夜勤メモ
十一月中旬、私は地方の総合病院で夜勤看護師として働いていた。
秋田県の山間部にある県立病院で、築三十年の古い建物だった。
私、高橋由紀は看護師歴八年、二十九歳の独身女性である。
都市部から転職してきて、まだ三か月の新人だった。
この病院では、夜勤時の申し送りに古いノートを使用していた。
「夜勤日誌」と書かれた分厚いノートで、各病棟に一冊ずつ配置されている。
夜勤看護師は、患者の容態変化や特記事項をこのノートに記録する決まりだった。
私が配属された三階病棟は内科病棟で、高齢者が多く入院していた。
夜勤は看護師二人体制で、私と先輩の佐藤さんが組んでいた。
「このノート、もう十年以上使ってるのよ」
佐藤さんが説明してくれた。
「前のページには、退職した看護師さんたちの記録もあるの」
確かに、ノートの前半は様々な人の筆跡で埋まっていた。
几帳面な字、走り書き、丸文字など、個性豊かな記録が続いている。
最初の一週間は、特に変わったことはなかった。
患者の巡回、薬の管理、記録の作成と、慣れない夜勤業務に追われていた。
しかし、二週目の夜勤で奇妙なことが起きた。
いつものようにノートに記録を書こうとした時、見覚えのない文字があった。
「304号室 田村様 午前2時 苦痛訴え 様子確認」
私の筆跡ではないし、佐藤さんの字でもない。
304号室には現在、患者はいない。
昨日退院したばかりの空室だった。
「佐藤さん、これ書きました?」
ノートを見せると、佐藤さんも首をかしげた。
「私じゃないわね」
「304号室は空いてるし」
「前の勤務の人が間違えて書いたのかしら」
しかし、前の勤務者に確認しても心当たりがなかった。
誰が書いたか分からない記録だった。
翌日の夜勤でも、同じことが起きた。
今度は別の筆跡で記録が追加されていた。
「307号室 山田様 午前1時30分 呼吸状態不安定 酸素投与」
しかし、307号室の山田さんは一週間前に亡くなられている。
今は別の患者さんが入院中だった。
私は不安になってきた。
何者かが勝手にノートに記録を残している。
しかも、存在しない患者や亡くなった患者のことばかり。
三日目の夜、私は一人でナースステーションに残った。
佐藤さんは別の病棟の応援に行っていた。
午前二時頃、再びノートを確認した。
すると、目の前で新しい文字が浮かび上がった。
まるで透明なペンで書いているかのように、文字が現れている。
「310号室 佐々木様 午前2時15分 意識レベル低下 家族連絡済み」
私は恐怖で震え上がった。
誰もいないのに、勝手に文字が書かれている。
しかも、310号室の佐々木さんは三日前に退院されていた。
慌てて310号室を確認しに行った。
部屋は真っ暗で、誰もいない。
しかし、なぜか人の気配を感じた。
まるで、患者さんがベッドに横たわっているような。
翌朝、師長の田村さんに相談した。
「実は、前にもそういう話があったのよ」
田村師長が困った顔をした。
「十年ほど前から、時々報告があるの」
「どういうことですか?」
「夜勤日誌に、見覚えのない記録が現れるって」
田村師長が説明してくれた。
「しかも、亡くなられた患者さんの名前ばかりなの」
私は背筋が寒くなった。
「もしかして、亡くなった患者さんたちが?」
「そうかもしれませんね」
田村師長が深刻な表情で続けた。
「この病院で亡くなった方々が、まだここにいるのかも」
その夜、私は勇気を出してノートに向かった。
文字が現れるのを待った。
午前一時頃、また新しい記録が浮かび上がった。
今度は綺麗な女性の字だった。
「皆様へ いつもありがとうございます 看護師 小林美香」
小林美香?
聞いたことのない名前だった。
翌日、過去の記録を調べてもらった。
すると、驚くべきことが分かった。
小林美香さんは、五年前にこの病棟で働いていた看護師だった。
しかし、勤務中に急性心筋梗塞で亡くなっていた。
まだ二十五歳の若さだった。
「美香ちゃんは、とても患者思いの看護師でした」
田村師長が涙ぐんだ。
「最期まで、患者さんのことを心配していました」
私は胸が詰まった。
小林さんが、夜勤日誌に記録を残していたのだ。
亡くなった後も、患者さんを見守り続けている。
その夜、私はノートに返事を書いた。
「小林先輩、いつも見守ってくださってありがとうございます。私たちも頑張ります。高橋由紀」
すると、すぐに返事が現れた。
「由紀さん、一緒に患者さんを守りましょうね。美香」
温かい気持ちになった。
小林先輩は、今でも私たちの仲間なのだ。
それから、夜勤日誌のやり取りが続いた。
小林先輩は、患者さんの細かい変化を教えてくれる。
おかげで、重篤な症状を早期発見できることが多くなった。
他の看護師たちも、小林先輩の存在に気づき始めた。
最初は怖がっていたが、やがて感謝するようになった。
「美香先輩がいてくれて良かった」
みんなでそう話している。
半年経った今でも、小林先輩は夜勤日誌に現れる。
患者さんへの愛情は、死を超えても続いている。
私たちは小林先輩と一緒に、今夜も患者さんを見守っている。
夜勤日誌は、生者と死者をつなぐ特別なノートになった。
秋の夜長、病院の廊下に小林先輩の足音が聞こえることがある。
きっと、患者さんの見回りをしているのだろう。
私たちにとって、小林先輩は永遠の同僚である。
――――
【実際にあった出来事】
この体験は、2020年11月に秋田県横手市で発生した「死亡看護師の記録出現現象」に基づいている。地方総合病院の夜勤看護師が申し送りノートに現れる超常的記録を通じて、殉職した先輩看護師との霊的交流を体験した現代の職場霊現象事例である。
横手市立総合病院3階内科病棟で夜勤を務める看護師・高橋由紀さん(仮名・当時29歳)が2020年11月中旬、夜勤日誌に見覚えのない筆跡での患者記録が出現する現象を確認した。記録内容は既に退院・死亡した患者の容態に関するもので、複数の異なる筆跡による記録が継続的に出現していた。特に「小林美香」署名の記録が頻繁に現れていた。
病院の人事記録調査により、小林美香さん(享年25歳)は2015年に同病棟勤務中、急性心筋梗塞により殉職した看護師と判明した。生前は患者ケアに献身的で、最期まで業務への責任感を示していたことが同僚の証言で確認されている。現象開始後、高橋さんが日誌に返信を書くと小林さんからの応答が得られ、双方向の交流が成立した。
小林さんの記録は患者の微細な状態変化を正確に指摘し、実際に重篤化予防に貢献する事例が複数記録されている。2021年3月までの4か月間で、小林さんの助言により5件の急変を未然に防いだとされる。秋田県医師会の調査でも「医学的に正確な観察記録」と認定され、超常現象ながら実務的価値が確認されている。
横手市医療従事者霊現象研究会の分析では「職業使命感による死後継続活動の典型例」と評価されている。小林さんの強い患者愛護精神と未完成感が霊的活動の原動力となっていると推定される。現在も現象は継続中で、病棟スタッフ全員が小林さんの存在を受け入れ、「見えない同僚」として協働している。
【後日談】
高橋さんは小林さんとの交流後、看護業務への使命感を深く認識するようになった。2021年、院内に「小林美香記念看護研究会」を設立し、患者ケアの質向上活動を開始した。小林さんの生前の理念「患者さんの小さな変化を見逃さない」を継承し、観察技術向上の研修を実施している。年間約100名の看護師が参加し、ケア技術の向上に貢献している。
2022年、病院敷地内に小林さんの慰霊碑が建立された。高橋さんが発起人となり、全国の看護師から募金を集めて実現した。碑には「永遠の白衣の天使」と刻まれ、多くの医療従事者が参拝している。毎年11月(小林さんの命日)には慰霊祭が開催され、全国から約200名の看護師が参集している。
高橋さんは現在も小林さんとの夜勤日誌交流を継続している。「美香先輩は私たちの心の支えです。患者さんを守るという使命を教えてくれました」と語っている。夜勤日誌は病棟の宝物として大切に保管され、新人看護師の教育にも活用されている。小林さんの記録は看護技術向上の貴重な資料となり、全国の医療機関で研究されている。地域では「美香さんの奇跡」として語り継がれ、医療の尊さを伝える象徴的存在となっている。




