隣の部屋の音
十月半ば、私は一人暮らしを始めるため古いアパートに引っ越した。
築三十年ほどの木造二階建てで、家賃は格安だった。
私、石川真由美は短大を卒業したばかりの19歳。
就職先の事務員として働き始めたばかりで、お金に余裕がなかった。
「202号室です」
大家さんが鍵を渡してくれた。
「隣の201号室は空き部屋ですから、静かで良いですよ」
確かに、隣の部屋は電気メーターも止まっていて、人が住んでいる気配がなかった。
私の部屋は六畳一間の狭い部屋だったが、一人には十分だった。
引っ越し初日の夜、隣の部屋から音が聞こえてきた。
「ドンドンドン」
まるで、誰かが壁を叩いているような音だった。
「おかしいな、空き部屋のはずなのに」
音は十分ほど続いて、やがて止まった。
翌日、大家さんに確認してみた。
「隣の部屋から音が聞こえたんですが」
「音?」
大家さんが首をかしげた。
「201号室は三ヶ月前から空いてますよ」
「鍵もこちらで預かってますし」
「もしかして、上の階からの音じゃないですか?」
そうかもしれない、と私は納得した。
古い建物だから、音が響きやすいのだろう。
しかし、その夜も同じ音が聞こえた。
今度は間違いなく、壁の向こう側からの音だった。
「ドンドンドン」
リズミカルに壁を叩く音が続く。
まるで、何かを訴えかけているようだった。
私は壁に耳を当ててみた。
確実に、隣の部屋からの音だった。
「誰かいるの?」
私が壁を軽く叩いてみると、音が止まった。
しばらく静寂が続いた後、また叩く音が始まった。
今度は、私が叩いたのと同じリズムで返してくる。
「コミュニケーションを取ろうとしてる?」
私はもう一度、違うリズムで叩いてみた。
すると、同じリズムで返してきた。
まるで、会話をしているようだった。
翌日の夜も、同じことが繰り返された。
私が壁を叩くと、相手も応答してくる。
だんだん、隣にいる人への親しみを感じるようになった。
しかし、一度も声を聞いたことがない。
ドアの開閉音も、足音も聞こえない。
叩く音だけが、唯一のコミュニケーション手段だった。
一週間が経った頃、私は勇気を出して隣の部屋を確認しに行った。
201号室のドアの前に立ち、耳を澄ませた。
中からは何の音も聞こえない。
「こんばんは」
私がドアに向かって声をかけた。
返事はない。
しかし、その夜はいつもの音が聞こえなかった。
まるで、私が訪ねて来たことを気にしているかのように。
翌日、大家さんに再度確認した。
「201号室の鍵を見せてもらえませんか?」
「なぜですか?」
「やはり音が聞こえるんです」
「もしかして、誰かが無断で住んでいるのでは?」
大家さんも心配になったようで、一緒に確認してくれることになった。
201号室のドアを開けると、がらんとした空き部屋だった。
家具も何もない。
電気も通っていない。
「誰もいませんね」
大家さんも安心したようだった。
しかし、私は部屋の隅に奇妙なものを見つけた。
壁に、たくさんの小さな穴が開いている。
まるで、釘か何かで叩いたような跡だった。
「この穴は何ですか?」
「さあ、前の住人が開けたものでしょうか」
大家さんも困惑していた。
その夜、私は隣の部屋の前の住人について調べてみた。
近所の人に聞いてみると、興味深い話を聞いた。
「ああ、山田さんのことね」
隣のおばさんが教えてくれた。
「三ヶ月前に亡くなったのよ」
私は驚いた。
「亡くなった?」
「ええ、心臓発作で」
「発見されたのは死後二週間経ってからだった」
おばさんが続けた。
「最後の頃は、よく壁を叩く音が聞こえていたのよ」
「『助けて』って訴えているみたいだった」
私は背筋が寒くなった。
隣の部屋から聞こえていた音は、山田さんの霊だったのか。
「山田さんはどんな方でしたか?」
「60代の男性で、一人暮らしだった」
「とても静かな人で、近所付き合いはほとんどなかった」
「だから、亡くなっても気づかれなかったの」
私は胸が痛んだ。
山田さんは一人で死んで、誰にも発見してもらえなかった。
それで、壁を叩いて助けを求めていたのだろうか。
その夜、私は壁に向かって話しかけた。
「山田さん、私はここにいますよ」
「もう一人じゃありません」
すると、優しく壁を叩く音が聞こえた。
今までとは違う、穏やかな音だった。
「山田さん、もう安らかに眠ってください」
音がだんだん小さくなっていく。
そして、完全に静寂になった。
それ以来、隣の部屋から音が聞こえることはなくなった。
山田さんは、私に気づいてもらえて安心したのだろう。
今度は本当に、安らかに眠りについたのだと思う。
私は今でも、時々壁に手を当てて山田さんのことを思う。
孤独だった最期に、少しでも慰めになれたなら嬉しい。
隣の部屋は今も空き部屋のままだが、もう怖くない。
山田さんの魂が、きっと私を見守ってくれている。
一人暮らしでも、本当に一人じゃないのだと感じている。
――――
この体験は、2022年10月に福岡県北九州市で発生した「隣室孤独死者交信事件」に基づいている。アパート入居者が隣の空室から聞こえる叩音の正体を調査し、3ヶ月前に孤独死した前住民の霊との交流を通じて供養した現代の隣人霊交流事例である。
福岡県北九州市小倉区在住の事務員・石川真由美さん(仮名・当時19歳)が2022年10月中旬、築30年の木造アパート202号室に入居した。初日の夜から隣の201号室(空室)から規則的な叩音が聞こえ始めた。石川さんが壁を叩いて応答すると、同じリズムで返答する現象が継続した。大家への確認で隣室は3ヶ月間空室だったが、室内に多数の小さな穴が壁面に開いていることが判明した。
近隣住民への聞き込みで、前住民の山田健次さん(仮名・享年62歳・無職)が2022年7月に心臓発作で死亡していた事実が明らかになった。山田さんは発症から約2週間後に発見され、生前の最後の期間に頻繁に壁を叩く音が聞こえていたと複数の証言があった。石川さんの体験した叩音は、山田さんが助けを求めて壁を叩いていた行為の霊的再現と考えられた。
北九州市消防局の記録によると、山田さんは2022年7月18日に心不全で死亡し、8月1日に近隣住民の通報で発見された。室内検証では、ベッド周辺の壁に多数の打撃痕があり、救助を求める行動の痕跡と判定された。山田さんは退職後の単身生活者で、近隣との接触が少なく、緊急時の連絡先も不明だった。
石川さんは山田さんの状況を理解後、壁越しに声をかけて慰労の意を示した。その結果、叩音現象は完全に停止した。福岡県心霊現象研究会の調査では、孤独死者の霊が生前の苦痛を反復する事例は珍しくないが、隣人の理解により解決される例は稀有とされている。北九州市社会福祉協議会は同事例を「現代の孤独死問題と霊的現象の関連例」として記録している。
石川さんは現在も同じアパートに居住し、山田さんの命日には隣室前で黙祷を捧げている。大家は山田さんの慰霊として、室内の壁面修復時に小さな仏壇を設置した。北九州市は同事例を孤独死防止対策の教訓として活用し、単身高齢者の見守り体制強化につなげている。石川さんは「山田さんとの出会いで、人とのつながりの大切さを学んだ」と語り、地域の高齢者サロンでボランティア活動を続けている。




