通話は、まだ切れていない
八月十三日、盆の入り。
成美は祖母の家の座敷で昼寝をしていた。障子の向こうからは蝉時雨、風鈴、そして僧侶が読経する声。いかにも夏の帰省という音風景――そこへ、スマートフォンの着信音が割り込んだ。
〈崇〉
画面に表示された名前を見た瞬間、成美は嫌な予感がした。
案の定、第一声はこうだ。
「成美、今どこにいる?」
「おばあちゃん家。お盆だから帰ってる」
「よかった。……あのさ、今、犬鳴峠に来てるんだけど――」
犬鳴峠。地元の人間なら誰もが距離を置く、福岡屈指の心霊スポットだ。1988 年 12 月、トンネル内で若い男性が暴行の末に焼殺された事件は、当時全国ニュースになった。その後、峠の旧道は封鎖され、入口のコンクリートブロックには「この先、日本国憲法は適用されません」と赤スプレーで落書きされた――そんな都市伝説も生んだ場所である。
「崇、何してんの! あそこ夜間は通行止めだよ?」
「まだ明るいし大丈夫。ていうか携帯が圏外になるポイント、本当にあるのか確かめたくてさ。成美に実況中継してやろうと思って――」
背筋に、汗とは別種の冷たさが走る。成美は必死に止めようとした。が、崇は耳を貸さない。
「それじゃ中に入るぞ。動画モードにしておくから、変なもの映ったらスクショよろしく!」
甲高い笑い声。続いて、トンネル内のひんやりした反響音がスピーカー越しに届く。ライトで照らされた壁のしみが、カメラのオートフォーカスを狂わせ、画面が何度も明滅した。
――ザザ……ザ……。
「うわ、もう電波が弱い。成美、聞こえる?」
「崇、やめなって! 帰って!」
「だいじょ――」
応答が途切れた。
画面は真っ暗。しかし通話は切れていない。成美は「もしもし」を連呼した。返ってくるのは、遠くで水が滴るような、ぽつり、ぽつりという音だけ。
やがて、誰かが小さく笑う声が混ざった。
女の声だ。くぐもっているが、確かに笑っている。喉の奥で、カラカラと乾いた音を立てながら――。
成美は震える指で通話を切ろうとした。だが、なぜか終了ボタンが反応しない。代わりにスピーカーから、さらに別の音が滲み出す。湿った布を絞るような、ずるりとした摩擦音。
――ザザザザ……。
次の瞬間、カメラが再び映像を拾った。
画面いっぱいに、濡れたアスファルト。床を這う何かの影。ライトは崇の足元を照らしているはずなのに、影の形は人間の四肢と合致しない。まるで節の多い蜘蛛が地面を掻くような異様な動きだった。
「崇! 聞こえる!? 早く出て!」
返事はない。
その代わり、マイクが拾った肉声とは思えぬ低音が鳴った。
「――かえれない」
男とも女ともつかぬ、淵の底から沸き上がる声。
画面がまた暗転し、次いで真っ赤に染まった。ライトが床ではなく天井を照らしたのだと気づく。天井のコンクリートにべっとり張りつく手形。その数は無数。祭りの夜店で売られる“お化けシール”のように乱雑に貼られ、乾きかけの泥がぽとぽと落ちてカメラを汚す。その泥にも赤いものが混じっていた。
成美はパニックになりながら警察へ通報しようとした。しかしそのとき、スマートフォンから別の着信音が重なった。――崇の番号だ。
二重に通話が成立しているはずはない。おそるおそる応答すると、ノイズの向こうで崇が震える声を発した。
「成美……お、俺、峠には行ってない。風邪ひいて寝てた。いま目が覚めたら、不在着信が十件以上入ってて……何かあったのか?」
成美は手の中のスマートフォンを見つめた。
画面には、なおも続く“もう一つの通話”のタイマーが表示されている。経過時間は十四分三十三秒。しかし、マイクもスピーカーも沈黙し、ただ深い山の底の空気だけを吸っているかのようだった。
「崇……今すぐ、犬鳴峠には絶対近づかないで」
「だから行ってないって」
「わかった……。じゃあ、すぐに着信履歴をスクショして送る。あとで警察にも相談するから」
通話を切ろうとした――そのとき、沈黙していた“向こうの通話”が突如、最後の言葉を吐き出した。
「――おまえは、だれと はなしてる?」
ぞっとするほど滑らかな発音だった。まるで成美が耳元で囁かれたかのように、温かい息づかいすら感じた。反射的に端末を床へ放り投げた瞬間、二本の通話は同時に切れた。
静寂。
蝉の声はまだ続いているのに、成美の鼓膜は張りつめたまま何も拾わない。
気づくと、畳の上に落ちたスマートフォンの画面にヒビが入っていた。ガラスの割れ目は奇妙な模様を作り、その中心――ちょうどフロントカメラの位置に、濁った水滴のような黒い染みが浮かんでいる。まるで誰かが、こちら側からレンズを指で押し潰したかのように。
翌朝、成美と崇は警察に相談した。だが通信会社の通話履歴には、問題の 14 分間は「発信・着信ともに不在」と記録されていなかった。あの時間帯、成美の番号は一切の通信をしていなかったのだ。
ただ一つ、不可解なログが残っていた。
1988 年 12 月に解約済みのはずの公衆電話――“犬鳴トンネル旧道口・第二ボックス”という登録名で、成美のスマートフォンに不在着信を残していたのである。日付は昨日、時刻はあの 14 分間の始まりと終わりを示していた。
成美はもうスマートフォンを耳に当てることができない。
夏の帰省は毎年続く。だが祖母の家で鳴る着信音が、蝉の声や風鈴に交じるたび、成美は思い出す。
――通話は本当に切れているのか。
誰が、どこから、まだこちらを見ているのか。
そして今年も盆が来る。
山間の夕立が止むと、峠の旧道では、焦げた紙と泥が混じったような匂いがむせ返るという。舗装の割れ目から、焼けこげた手形がじわりと浮かび上がり、誰かのスマートフォンを探して這い寄ってくるらしい――。
【了】
【登場人物】
・佐伯成美……都内の大学生。実家は福岡県糟屋郡。
・早川 崇……成美の同級生。オカルト好き。
・犬鳴峠……福岡県に実在する峠。1988 年に起きた焼殺事件以来、心霊スポットとして知られる。