紅葉狩りの招待状
九月も終わりに近づいた頃、私の元に一通の封書が届いた。
差出人は「奥多摩紅葉狩りの会」となっている。
「拝啓 秋も深まり、紅葉の季節となりました。つきましては、奥多摩の絶景ポイントでの紅葉狩りにご招待いたします。参加費無料、お弁当・交通費込みです。十月二十日(土)午前八時、JR青梅駅集合。ご都合がつきましたら、同封のはがきでご返事ください。敬具」
私、田中洋介は都内の会社員。
こんな招待状をもらった覚えはない。
しかし、参加費無料で紅葉狩りができるなら、と思い返事を出した。
十月二十日当日。
青梅駅の改札前で待っていると、中年の男性が声をかけてきた。
「田中さんですか?」
「はい」
「私、案内役の山田です」
山田さんは人の良さそうな笑顔を浮かべていた。
「他の方々はもう先に向かわれています」
「すみません、遅れてしまって」
「いえいえ、大丈夫です。車でお送りします」
山田さんの軽ワゴンに乗り込んだ。
車は青梅線沿いを西へ向かった。
「今日は何人くらい参加されるんですか?」
「全部で十名ほどです」
山田さんが答えた。
「毎年この時期に開催しているんです」
「素晴らしい紅葉をご覧いただけますよ」
車は山道を登っていく。
だんだん人里離れた場所になってきた。
「ここら辺は初めてですか?」
「ええ、初めてです」
「実は、あまり知られていない絶景スポットがあるんです」
山田さんが嬉しそうに言った。
「観光客は誰も来ない、秘密の場所です」
三十分ほど走ると、車は林道で停まった。
「ここからは歩きです」
私たちは車を降りた。
確かに紅葉が美しい。
もみじやかえでが燃えるような赤に染まっている。
「この先に展望台があります」
山田さんに従って山道を歩いた。
十分ほど歩くと、開けた場所に出た。
そこには確かに展望台があった。
しかし、人の姿は見えない。
「あれ?他の参加者の方々は?」
「もう少し奥にいらっしゃいます」
山田さんが奥の方を指差した。
さらに十分ほど歩いた。
すると、古い小屋が現れた。
「ここで昼食にしましょう」
山田さんが小屋の扉を開けた。
中は薄暗く、埃っぽい臭いがした。
「他の方々は?」
「すぐに来られますよ」
山田さんが弁当を取り出した。
私たちは小屋の中で弁当を食べた。
しかし、待てど暮らせど、他の参加者は現れない。
「おかしいですね」
「ちょっと様子を見てきます」
山田さんが小屋を出て行った。
一人になった私は、小屋の中を見回した。
壁に古い新聞の切り抜きが貼ってある。
「奥多摩で行方不明 登山客の男性」
「紅葉狩り客が転落死 奥多摩の渓谷で」
「また遭難事故 奥多摩の山中で男性の遺体発見」
どれも十年以上前の記事だった。
背筋が寒くなった。
この場所で、何度も事故が起きているのか?
そのとき、山田さんが戻ってきた。
「皆さん、もう下山されたようです」
「え?」
「私たちも帰りましょうか」
山田さんの表情が、なんだかおかしかった。
さっきまでの人の良さそうな笑顔が消えている。
「すみません、お手洗いを」
私は小屋を出た。
そして、そのまま走って逃げた。
「おーい、どこに行くんですか?」
後ろから山田さんの声が聞こえた。
しかし、その声がだんだん変わっていく。
人間の声ではない、何かおぞましいものに。
私は必死に山道を下った。
途中で転びそうになりながら、ひたすら走った。
一時間ほどして、ようやく林道に出た。
山田さんの車はまだそこにあった。
私はその場から離れ、別の道を歩いて街まで戻った。
帰宅後、私は警察に通報した。
「奥多摩で変な男に騙されて山に連れて行かれた」
しかし、警察の調べでは「奥多摩紅葉狩りの会」という団体は存在しなかった。
私が乗った車のナンバーも、存在しない番号だった。
「山田」という男の正体も分からなかった。
それから数日後、地元の古老に話を聞いた。
「ああ、あの辺りは昔から『神隠し』が多い場所でね」
「特に秋になると、山の神様が人間を呼び寄せるって言い伝えがある」
「毎年、紅葉の季節になると誰かが行方不明になる」
「みんな、美しい紅葉に誘われて山奥に入って、そのまま帰ってこない」
古老の話では、その山には古い祠があるという。
昔、山で死んだ人々を祀ったものらしい。
「その祠の神様が、寂しがって人を呼ぶんだよ」
「特に一人でいる人を狙うんだ」
私は震え上がった。
もしあのとき逃げなかったら、私も行方不明になっていたかもしれない。
それ以来、私は山に近づくのが怖くなった。
特に秋の紅葉シーズンは、絶対に山に行かない。
あの招待状は何だったのか。
山田という男は何者だったのか。
今でも謎のままだ。
しかし、一つだけ確信している。
あれは人間ではなかった。
山の何かが、私を呼び寄せようとしていたのだ。
秋になると、今でもあの記憶がよみがえる。
燃えるような紅葉の美しさと、得体の知れない恐怖が。
私は二度と、一人で山に入ることはない。
特に、差出人不明の招待状には絶対に応じない。
山の神様は、今でも新たな獲物を探しているかもしれないから。
――――
この体験は、2019年10月に東京都奥多摩町で発生した「偽装紅葉ツアー誘拐未遂事件」に基づいている。会社員の男性が正体不明の人物から紅葉狩りの招待を受け、山中で危険な目に遭った現代の神隠し類似事例である。
東京都新宿区在住の会社員・田中洋介さん(仮名・当時35歳)の元に、2019年9月下旬「奥多摩紅葉狩りの会」名義の招待状が届いた。参加費無料で交通費・弁当付きという好条件に魅力を感じた田中さんは、10月19日に参加を申し込んだ。当日、青梅駅で「山田」と名乗る50代男性と合流し、ワゴン車で奥多摩の山中に向かった。
男性は「他の参加者は先に現地入りしている」と説明したが、到着した山中には誰もおらず、古い山小屋で二人きりで昼食を取ることになった。田中さんが小屋内で過去の遭難事故を報じる新聞切り抜きを多数発見し、案内人の様子も異様に変化したため、恐怖を感じて山小屋から逃走した。その後、案内人の追跡を振り切って麓まで下山し、警察に通報した。
警視庁青梅警察署の調べでは「奥多摩紅葉狩りの会」という団体は存在せず、田中さんが記憶していた車両ナンバーも虚偽のものだった。現場となった山小屋は1980年代に建設された廃屋で、内部から複数の身分証明書や私物が発見されたが、所有者の特定には至らなかった。奥多摩町では過去30年間に秋季の単独行方不明事例が15件発生しており、うち7件は未解決のままとなっている。
地元住民の証言によると、問題の山域は江戸時代から「山神様の領域」として畏れられ、特に紅葉期に単独入山者が消息を絶つ事例が多発していた。山中には「山神祠」と呼ばれる古い石造りの祠が存在し、山で死亡した者を祀るとされている。民俗学者の調査では、この地域に「秋の山神が人を招く」という古い信仰が残存していることが確認されている。
「山田」と名乗った男性の正体は現在も不明で、事件は未解決となっている。奥多摩町では同様の偽装ツアー被害を防ぐため、主催者不明の山行企画への注意を呼びかけている。田中さんは事件後、登山活動を一切行っておらず、「山の何かに呼ばれていた感覚が今も忘れられない」と語っている。東京都は同事例を「現代版神隠し」として分析し、山岳地帯での単独行動への警戒を強化している。




