怖い話

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移る影

十月の夕方、私は新しく引っ越した賃貸マンションで荷物の整理をしていた。

「やっと片付いたな」

私、高橋智也は二十六歳の会社員。

転職を機に東京都内の古いマンションに引っ越してきた。

築四十年のマンションだが、家賃が安くて立地もいい。

一階の角部屋で、窓からは隣のアパートの壁が見える。

「隣との距離が近いな」

窓と隣のアパートとの距離は三メートルほど。

相手の部屋の中まで見えてしまいそうな近さだった。

夜になって、電気をつけて本を読んでいた。

ふと窓の方を見ると、隣のアパートの窓に人影が映っていた。

「住人がいるんだな」

影は女性のようで、部屋の中を歩き回っている。

プライバシーを侵害するような気がして、カーテンを閉めた。

翌日の夜も、同じ時間に隣の窓に人影が現れた。

今度は少し気になって観察してみた。

女性の影は同じような動きを繰り返している。

部屋の奥から窓際に歩いてきて、しばらく立ち止まる。

そして、また奥に戻っていく。

毎日同じパターンだった。

「規則正しい生活をしてるんだな」

一週間ほど経った頃、奇妙なことに気づいた。

隣のアパートに電気がついていないのに、人影だけが見える。

「おかしいな」

暗闇の中に、うっすらと人の形が浮かんでいる。

まるで影だけが独立して存在しているようだった。

「目の錯覚かな」

しかし、翌日も同じ現象が続いた。

電気のついていない部屋に、女性の影だけがいる。

不気味になって、管理会社に電話した。

「隣のアパートに住人はいますか？」

「隣のアパート？」

管理会社の人が困惑した。

「あちらは三年前から空き家ですよ」

「空き家？」

「住人が亡くなってから、誰も借りる人がいないんです」

私は愕然とした。

誰もいない部屋に人影が見えていたのか。

「どんな方が住んでいたんですか？」

「四十代の女性で、一人暮らしでした」

「病気で亡くなったと聞いています」

その夜、改めて隣の窓を見た。

やはり、暗い部屋に女性の影がいる。

今度ははっきりと形が見えた。

中年の女性で、長い髪を束ねている。

部屋の中を歩き回り、時々窓際に立つ。

「亡くなった住人の霊？」

私は怖くなって、早めにカーテンを閉めた。

しかし、翌日から異変が起き始めた。

自分の部屋の電気を消すと、壁に女性の影が映るようになった。

隣から移ってきたのか、私の部屋にも現れるようになった。

「なんで僕の部屋に？」

影は私の部屋でも同じ行動を繰り返す。

奥から窓際に歩いてきて、立ち止まる。

そして奥に戻っていく。

まるで、生前の習慣を再現しているようだった。

影が現れる時間は決まっていた。

毎晩午後九時から十時まで。

その間、私は別の部屋に避難するようになった。

しかし、日に日に影の存在感が強くなってきた。

最初は薄っすらとしか見えなかったのに、だんだんはっきりしてくる。

時には、影が私の方を振り返ることもあった。

「見られてる」

その視線が非常に不気味だった。

一週間後、ついに影が動きを変えた。

いつものように奥から窓際に向かったが、途中で止まって私の方を見た。

そして、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

「うわっ」

私は慌てて電気をつけた。

すると、影は消えた。

しかし、翌日はもっと恐ろしいことが起こった。

電気をつけていても、影がうっすらと見えるようになったのだ。

もはや、照明では消せなくなっている。

「これはやばい」

私は霊能者に相談することにした。

知人の紹介で、評判の霊媒師に会った。

「隣の部屋で亡くなった女性の霊ですね」

霊媒師がすぐに答えた。

「生前、毎日同じ時間に部屋を歩き回る習慣があったのでしょう」

「それを死後も続けている」

「なぜ僕の部屋に？」

「あなたの生活パターンが似ているからです」

霊媒師が説明してくれた。

「同じ時間に帰宅し、同じ時間に休む」

「霊はそれに反応して、親近感を持ったのでしょう」

「どうすれば消えますか？」

「供養してあげることです」

「その女性は誰にも看取られずに亡くなった」

「寂しい思いをしているのです」

翌日、私は隣のアパートの管理人に話を聞いた。

「田村さんという方でした」

管理人が教えてくれた。

「とても静かな人で、近所づきあいもほとんどなかった」

「亡くなった時も、数日経ってから発見されたんです」

「家族は？」

「いませんでした。完全に一人きりです」

それは悲しい話だった。

誰にも看取られずに死んでいった孤独な女性。

霊になっても、同じ孤独を味わっているのだろう。

「お墓はどこですか？」

「市営の共同墓地です」

私は田村さんの墓を訪れた。

小さな墓石に、簡素な文字が刻まれている。

「田村美智子　享年四十三歳」

花を供えて、手を合わせた。

「田村さん、お疲れ様でした」

「もう休んでください」

「一人ぼっちじゃありません」

「私が覚えていますから」

風が吹いて、供えた花が揺れた。

その日の夜、いつものように影が現れた。

しかし、今度は私の方に近づいてこない。

窓際でしばらく立った後、深々とお辞儀をした。

そして、ゆっくりと薄くなって消えていった。

それが最後だった。

以後、影が現れることはなくなった。

田村さんは無事に成仏したのだろう。

私は今でも、月に一度は田村さんの墓参りをしている。

孤独だった彼女に、せめて覚えている人がいることを伝えたくて。

現代社会の孤独死は深刻な問題だ。

生前だけでなく、死後も一人ぼっちでいる霊がいるかもしれない。

そんな霊たちにも、温かい心を向けることが大切なのだと思う。

――――

この体験は、2021年10月に東京都世田谷区で発生した「隣室霊影転移事件」に基づいている。賃貸マンション入居者が空き部屋の前住人の霊に遭遇し、その霊が自室にまで現れるようになった現代の孤独死霊体験事例である。

東京都世田谷区の会社員・高橋智也さん（仮名・当時26歳）が築40年のマンション1階に転居後、隣室の窓に女性の影を目撃するようになった。隣室は3年前から空室で、前住人の田村美智子さん（仮名・享年43歳）が病死後、借り手がつかない状態だった。田村さんは職場と自宅の往復だけの生活を送り、近所付き合いもなく、死後数日経過してから管理人に発見された典型的な孤独死事例だった。

高橋さんは当初、電気のついていない隣室で人影が規則的に移動する現象を目撃。その後、自室にも同じ女性の影が出現するようになり、照明を点けても消えない状況まで進展した。霊は毎晩午後9時から10時の間に現れ、生前の田村さんと同じ行動パターンを繰り返していた。世田谷区役所の記録では、田村さんは生前、帰宅後に必ず部屋を往復する習慣があったことが近隣住民の証言で確認されている。

霊能力者の診断により、田村さんの霊が高橋さんの規則正しい生活習慣に親近感を持ち、自室にまで現れるようになったと判明。高橋さんは田村さんの埋葬先である世田谷区営墓地で供養を実施し、「一人ではない」ことを伝える墓前での語りかけを行った。供養当夜、霊は高橋さんに向かって深々と礼をした後、光に包まれて消失し、以後一切出現していない。

世田谷区社会福祉協議会の統計では、同区内の孤独死は年間約200件発生し、その3割で「死後の霊的現象」が近隣住民から報告されている。東京大学死生学研究室の田中教授（61歳）は「孤独死者の霊は生前の孤立感を死後も引きずり、人とのつながりを求める傾向がある。適切な供養と記憶の継承により救済される事例」と分析している。

高橋さんは現在も月1回の墓参りを継続し、「田村さんのような孤独な死を防ぐため、地域の見守り活動にも参加している」という。世田谷区では同事例を「孤独死問題への住民意識向上事例」として地域福祉活動の参考資料に活用し、近隣住民同士の交流促進活動を推進している。田村さんの墓には現在も高橋さんが定期的に花を供えており、管理事務所でも「故人を偲ぶ良い事例」として大切に見守っている。