メーターは、まだ動いている
八月十五日、終戦記念日。そして盆の送り火の晩。
石巻タクシー協同組合所属の運転手・及川功(おいかわ いさお/38 歳)は、深夜一時、山下町の待機所で最後の客を待っていた。窓の外では遠く、追波湾から吹き込む湿った風がビルの隙間で笛を吹く。
無線に雑音が走った。
〈……女の子、ひとり、新蛇田の旧北上川沿いで手上げ……〉
同僚の声が途中で切れる。通信状態は悪くないはずだった。
「了解。及川が拾います」
送信ボタンを押すと同時に、無線機がジリ、と甲高い悲鳴を上げた。ヘッドセットを外し、耳を揉んでいるうちに後部ドアがノックされた。
振り向くと、女の子が立っていた。
白いカーディガンに紺のプリーツスカート。高校生だろうか。片手にビニール袋、もう片方の手には濡れたサンダルを持っている。足元は素足で、砂がついていた。
「……港湾病院まで、お願いします」
声はか細いがはっきりしている。及川はハザードを止め、メーターを倒した。
走り出してすぐ、後部座席のミラー越しに彼女を見た。窓外の街灯が青白く揺れ、首筋に付いた砂粒がキラキラと光る。
「海にいたの?」
不意に口をついた質問は、運転手としての愛想半分、深夜の女子高生が心配という気持ち半分だった。
「……はい。呼ばれた気がして」
「呼ばれた?」
「家に帰るはずだったのに、波打ち際で誰かが“ここだよ”って。……でも姿が見えなくて」
そう呟いたまま、少女は黙り込んだ。
港湾病院まで十分あまり。人通りのない二車線を滑るように進む。が、途中から街灯が点いていないことに気づく。震災後の計画停電はとうに終わっているはずだ。
メーターを見ると、料金表示の上を細い水滴が這っていた。結露かと思いエアコン温度を上げても、雫は増える一方。やがて数字の上で止まり、0→8→1→1 と切り替わった。
8011 円……?
針路上に「石巻市立大川小学校跡地 →」の青看が現れる。及川は息を呑んだ。大川小は津波で児童と教職員 84 名が犠牲となった場所。行先を聞き違えたのかとバックミラーを覗く。
後部座席は、空だった。
急ブレーキを踏み、肩口を振り返る。しかしドアは内側からロックされ、シートは濡れている。磯の匂いが立ち上り、運転席の足元まで水が染みてきた。
――ザバァ。
車体が前後に揺れた。フロントガラスの向こうで黒い水面が盛り上がり、路肩いっぱいに広がる。周囲の建物はなくなり、見渡す限り、夜の海。
ヘッドライトが照らし出したのは、制服姿の男女、作業着の中年、浴衣の老人……波間に肩まで浸かりながらこちらを向く群像だった。全員が右手を水平に挙げ、タクシーを止める仕草をしている。
その中央に、さっきの少女がいた。
白いカーディガンは水を吸い、重たげに肌へ貼り付く。彼女は目を伏せたまま、囁いた。
「おねがい、乗せて。 家まで、かえして……」
及川はハンドルを握り直した。アクセルを踏めば逃げられる。だがメーターの数字が再び変わる。
3 → 1 → 1 → 2
3112 円。
震災が起こった 2011 年 3 月 11 日、14 時 46 分。あの日を示すような並びに、頭が真白になる。
目を閉じた。ただ、それだけで世界が跳ね返った。
耳を塞いでも、車内に波音が満ちてくる。床が抜け、冷水が踝を噛んだ。シートベルトを外そうとした瞬間、後ろから細い腕が首に絡みついた。
「ここに、いて」
耳元で濡れた髪が触れる。腕は華奢なのに、鉄のフレームより硬かった。喉を締め付ける力に逆らい、何とかサイドブレーキを引き、ドアを蹴り開けた。水が雪崩れ込み、胸まで達したところで意識が遠のいた。
気がつくと、及川は運転席に突っ伏していた。
エンジンは止まり、外は夜明け前の灰色。場所は港湾病院の正門前。車内に水はないが、シートとカーペットは海水の匂いで濡れている。
メーターは 0 円にリセットされ、走行距離だけが 8.4 km 増えていた。待機所から病院までの実距離と一致する。だが、少女を乗せてから病院まで最短ルートは陸側を通る 6 km のはず。
無線を入れると、同僚の声が震えていた。
〈及川……生きてるのか? さっきの“女性客”の件、戻してくれ〉
「戻すって?」
〈旧北上川沿いで女の子拾ったろ? ……お前、深夜 1 時 16 分に“お客 1 名乗車。目的地:港湾病院”って発声したあと、無線が9分間、ずっと水の中みたいな音だけだったんだ〉
時計は午前 4 時 46 分。
「14 時 46 分」を裏返したような数字。ぞっとしてサイドミラーを見ると、後部座席のヘッドレストに何かがぶら下がっている。
――白いカーディガンの袖口。先端が切り離された腕ごと、結び目のように揺れていた。
ドアを開けて吐いた。胃液と海水の匂いが混ざる。
その瞬間、無線スピーカーから砂を噛むような音が漏れ、少女の声がかすかに乗った。
〈……かえろう……みんなで、かえろう……〉
2011 年の津波から十年以上が過ぎても、石巻のタクシーには“乗らない客”のメーターが上がり続ける。
送り火が消える深夜、海風が窓枠を叩くとき、運転手たちはシフトノブを握り直す。
メーターが示す数字が、たった一度でも「3 11」に重ならないように──
それは、生きて帰るための小さな祈りだ。
【了】
【舞台と実話】
宮城県石巻市・市内を走るタクシーで、東日本大震災後「乗せた客が途中で消えた」という報告が少なくとも7件、東北学院大学大学院(2016 年調査)に記録されている。夏の盆時期に集中する例が多い。