呼ぶ声
十一月の深夜、私は一人でコンビニへ向かっていた。
「牛乳を買いに行こう」
私、石川和也は大学三年生。
一人暮らしのアパートで夜食の準備をしていた時、冷蔵庫に牛乳がないことに気づいた。
時刻は午前二時を回っている。
「二十四時間営業で助かる」
アパートから徒歩五分のコンビニまで、街灯の少ない住宅街を歩く必要があった。
秋の夜風が冷たく、落ち葉が舞い散っている。
歩きながら、ふと人の声が聞こえた。
「和也」
私の名前を呼ぶ声だった。
振り返ったが、誰もいない。
「気のせいかな」
そのまま歩き続けると、また声が聞こえた。
「和也、こっちよ」
今度ははっきりと聞こえた。
女性の声で、どこか聞き覚えがある。
「誰だろう」
声は住宅街の奥の方から聞こえてくる。
街灯がなく、真っ暗な路地の方向だった。
「こっち」
声が再び聞こえた。
なぜか、その声に従いたくなる衝動に駆られた。
足が勝手にそちらの方向に向かってしまう。
「おかしいな」
私は必死に自制して、コンビニへの道を進んだ。
しかし、声は諦めずに続いた。
「和也、なぜ来ないの?」
「待ってるのに」
声の主は悲しそうに聞こえた。
まるで、私を恋しがっているような口調だった。
「誰なんだ」
コンビニに着いて、牛乳を買いながら店員に聞いてみた。
「この辺りで変な声を聞いたことありませんか?」
「変な声?」
店員が首をかしげた。
「人を呼ぶような声です」
「ああ、それなら時々お客さんからも聞きますね」
店員が思い出したように言った。
「深夜に誰かに呼ばれたって」
「他にもあるんですか?」
「特に秋になってから多いです」
「誰の声か分かります?」
「さあ、でも女性の声だって皆さん言いますね」
私は不安になった。
同じ体験をしている人が他にもいるということは、何か原因があるのだろう。
帰り道、また声が聞こえた。
「和也」
今度はさっきより近くに感じる。
「なぜ無視するの?」
声に哀しみが込められていた。
「私のこと、忘れちゃったの?」
その時、記憶が蘇った。
この声は高校時代の同級生、田中美里の声だった。
「美里?」
私が名前を呼ぶと、声が嬉しそうになった。
「やっと気づいてくれた」
「会いたかった」
しかし、美里は三年前の秋に亡くなっていた。
交通事故で、まだ二十歳だった。
「でも、美里は」
「死んでるって言いたいの?」
声が少し怒ったような調子になった。
「私はここにいるわ」
「この近くで待ってる」
私は震え上がった。
美里の霊が、私を呼んでいるのだろうか。
「なぜ僕を?」
「あなたが好きだったから」
美里が告白した。
「でも、言えないまま死んじゃった」
「だから、今こうしてあなたに会いに来たの」
高校時代、美里とは同じクラスだった。
おとなしい女の子で、私とはあまり話したことがなかった。
まさか、私のことを好きだったとは。
「美里」
「こっちに来て」
声が誘うように響く。
「一緒にいましょう」
私は恐怖と同時に、不思議な安心感も感じた。
美里の声は優しく、懐かしかった。
しかし、理性が警告する。
死者の誘いに従ってはいけない。
「ごめん、美里」
「僕は生きてる人間だから」
「あなたとは一緒にいられない」
すると、美里の声が急に冷たくなった。
「そんなこと言うの?」
「私がどんなに寂しい思いをしてると思ってるの?」
「三年間もずっと一人で」
声が泣いているように聞こえた。
「毎日毎日、あなたのことを想って」
「やっと声をかける勇気が出たのに」
私は胸が痛んだ。
美里の気持ちは嬉しかった。
しかし、死者と生者の恋は成り立たない。
「美里、君の気持ちは嬉しい」
「でも、君は成仏しなきゃいけない」
「僕のことは忘れて、安らかに眠って」
長い沈黙があった。
そして、美里が小さな声で答えた。
「分かった」
「でも、最後に一つお願いがあるの」
「何?」
「私の墓参りに来て」
「そうしたら、諦める」
翌日、私は美里の墓がある霊園を訪れた。
墓石には「田中美里 享年二十歳」と刻まれている。
花を供えて、手を合わせた。
「美里、やっと会えたね」
「君の想いを聞けて嬉しかった」
「でも、僕は生きてる」
「君は天国で幸せになって」
風が吹いて、落ち葉が舞い散った。
その中に、美里の姿がぼんやりと見えた。
高校時代と同じ、清楚な笑顔だった。
「ありがとう、和也」
「これで心残りがなくなった」
「さようなら」
美里の姿が光に包まれて消えていった。
それ以来、夜中に声が聞こえることはなくなった。
美里は無事に成仏したのだろう。
しかし、時々思う。
もし、あの時美里の誘いに従っていたら。
私も美里と一緒に向こうの世界に行っていたかもしれない。
死者の愛は、時として生者を道連れにしようとする。
それは愛ではなく、執着なのだ。
美里がそれに気づいて諦めてくれて、本当に良かった。
今でも秋になると、あの夜のことを思い出す。
風の音が、美里の声に聞こえることがある。
でも、もう私を呼ぶことはない。
美里は安らかな場所で眠っているのだから。
――――
この体験は、2021年11月に千葉県松戸市で発生した「深夜女性霊呼び声事件」に基づいている。大学生が深夜の住宅街で亡き同級生の霊に呼び続けられ、最終的に墓参供養で成仏に導いた現代の霊的コミュニケーション事例である。
千葉県松戸市の大学3年生・石川和也さん(仮名・当時21歳)が11月中旬の深夜、アパート近くのコンビニへ向かう途中で女性の声に呼び続けられる現象に遭遇した。「和也」「こっちよ」と名前を呼ぶ声は住宅街の暗い路地から聞こえ、石川さんを特定の方向に誘導しようとした。声の主は最終的に高校時代の同級生で3年前に交通事故死した田中美里さん(仮名・享年20歳)と判明した。
同時期、松戸市常盤平地区では同様の「深夜女性呼び声」の目撃証言が住民から複数寄せられていた。コンビニ店員の証言では「特に秋になってから、夜中に誰かに名前を呼ばれたという客が週に2-3人はいた」という。石川さんの体験では、霊は生前の想いを告白し、石川さんを死後の世界に誘おうとしたが、石川さんの説得により墓参りを条件に諦めることを約束した。
翌日、石川さんが松戸市営霊園で田中さんの墓参りを実施したところ、墓前で田中さんの霊姿を目撃し、「ありがとう、これで心残りがなくなった」との言葉を最後に光に包まれて消失した。以後、同地区での呼び声現象は完全に停止し、石川さんも二度と体験していない。
松戸市教育委員会文化財保存課の調査では、田中さんの事故現場が石川さんのアパート近くの路地であったことが判明。田中さんは2018年11月23日夜、同地点で車に跳ねられて即死しており、石川さんを呼んでいた場所と完全に一致していた。千葉大学心理学部の佐々木教授(59歳)は「未成就の恋愛感情が死後も継続し、特定人物への執着として現れる典型的事例。適切な供養により成仏に至った理想的な解決例」と分析している。
石川さんは現在も月命日に田中さんの墓参りを続けており、「美里さんの想いに応えられて良かった。彼女が安らかに眠れていることを願っている」と語る。松戸警察署でも同事件を「住民の霊的体験報告への適切対応事例」として記録し、類似の相談への参考にしている。現在、田中さんの墓は家族により丁寧に管理され、石川さんが供えた花も定期的に手入れされている状況である。




