古井戸の神様
八月下旬、高校三年生の私、加藤真一は友人の山本と一緒に、取り壊し予定の古い家の片付けを手伝っていた。
「随分古い家だな」
山本が屋敷を見回しながら言った。
「明治時代の建物らしいよ」
依頼主は私の父の知り合いで、相続した古い家を取り壊すことになったという。
「庭も広いし、片付けは大変だろうな」
庭には草木が生い茂り、奥の方には古い井戸も見える。
「あの井戸、まだ使えるのかな」
「さあ、どうだろう」
私たちは家の中の荷物を運び出す作業を始めた。
古い家具や書類、写真などが山のようにあった。
「この家の人、どうして引っ越したの?」
「家主のおばあさんが亡くなって、息子さんが東京にいるから」
午後になって、私たちは庭の片付けにも取りかかった。
庭木の剪定や草むしりをしていると、奥の井戸が気になった。
「ちょっと井戸を見てみよう」
私たちは井戸に近づいた。
石組みの立派な井戸で、上には古い屋根もついている。
「深そうだな」
井戸を覗き込むと、底の方で水がキラキラと光っていた。
「まだ水が出るんだ」
その時、山本が井戸の横にある小さな祠に気づいた。
「これ、何だろう」
祠には「井戸神様」と書かれた札が貼られていた。
「井戸の神様を祀ってるのか」
祠の中には、小さな陶製の人形が置かれている。
女性の形をした、素朴な人形だった。
「可愛い人形だね」
山本が人形を手に取った。
「これも処分するのかな?」
その瞬間、急に風が吹いた。
さっきまで無風だったのに、強い風が庭を駆け抜ける。
「なんか急に寒くなった」
私も肌寒さを感じた。
「人形、戻しておこう」
山本が慌てて人形を祠に戻した。
すると風が止まった。
「偶然だよね?」
「そうだよ」
でも、二人とも何か不安を感じていた。
夕方、作業を終えて帰ろうとした時だった。
井戸の方から、かすかに声が聞こえた。
「待って」
私たちは立ち止まった。
「今、声聞こえた?」
「うん、聞こえた」
井戸の方を振り返ると、井戸の前に白い着物を着た女性が立っていた。
「あの人、いつからいたの?」
「わからない」
女性がこちらに向かって歩いてくる。
近づくにつれて、その美しさに圧倒された。
しかし、どこか現実感がない。
「もしかして」
女性が私たちの前で立ち止まった。
「この井戸を、壊すのですか?」
透き通るような声だった。
「あの、あなたは?」
「私は、この井戸の神様です」
女性が微笑んだ。
「長い間、この家と井戸を守ってきました」
私は震え上がった。
「神様?」
「はい。この井戸には、私の魂が宿っているのです」
女性が井戸を振り返った。
「江戸時代から、この家の人々を見守ってきました」
「それで、今日は何を?」
「この家が壊されることは仕方ありません」
女性が悲しそうに言った。
「でも、井戸だけは残してほしいのです」
「なぜですか?」
「ここには、この土地の記憶が詰まっています」
女性が説明してくれた。
「昔、この井戸で命を救われた人がたくさんいるのです」
「どんな風に?」
「干ばつの時、この井戸だけは枯れることがありませんでした」
女性の目に涙が浮かんだ。
「疫病の時も、この井戸の水で多くの人が助かりました」
私は胸が熱くなった。
「大切な井戸なんですね」
「はい。だから、できれば残してほしいのです」
女性が頭を下げた。
「お願いします」
「でも、僕たちには決める権限が」
「持ち主の方に、伝えてもらえませんか?」
女性が必死に頼んだ。
「きっと、わかってくれると思います」
私たちは約束した。
「必ず伝えます」
「ありがとうございます」
女性が感謝の笑顔を見せた。
「あなたたちは優しい人ですね」
女性の姿が薄くなっていく。
「この恩は、必ずお返しします」
完全に消える前に、女性が最後の言葉を残した。
「井戸を大切にしてくれる人には、幸運を授けます」
翌日、私たちは父を通じて持ち主に井戸の件を相談した。
「井戸の神様?」
持ち主の田村さんが驚いた。
「そんなことがあったんですか」
「はい。とても美しい女性でした」
田村さんがしばらく考えた後、言った。
「実は、祖母から井戸の話を聞いたことがあります」
「どんな話ですか?」
「昔から、あの井戸には神様がいるって」
田村さんが微笑んだ。
「祖母は毎朝、井戸にお参りしていました」
「それなら」
「はい。井戸は残すことにします」
田村さんが決断してくれた。
「神様がいるなら、大切にしなければ」
一週間後、工事業者が来て家の解体が始まった。
しかし、井戸と祠だけは綺麗に保存された。
新しく整備された小さな公園の一角に、井戸が移設されたのだ。
完成した時、また井戸の神様が現れた。
「ありがとうございました」
女性が深々とお辞儀をした。
「おかげで、これからも人々を見守ることができます」
「良かったです」
「約束通り、あなたたちに幸運を授けます」
女性が手を合わせた。
「きっと、良いことがありますよ」
その後、本当に良いことが続いた。
私は第一志望の大学に合格し、山本も就職が決まった。
井戸の神様のおかげかもしれない。
今でも時々、その井戸を訪れる。
いつも清らかな水をたたえ、小さな祠には新しいお供え物が供えられている。
神様は今も、人々を見守り続けているのだろう。
――――
この体験は、2020年8月に埼玉県秩父市で発生した「古井戸神霊保存事件」に基づいている。家屋解体に伴い井戸の神霊が出現し、保存を直接訴えたことで井戸が公園施設として移設保存された、神霊と人間の対話による文化財保護の稀有な事例である。
埼玉県秩父市内の明治時代建築の古民家で、相続による解体工事前の片付けを手伝っていた高校生の加藤真一さん(仮名・当時18歳)と山本健二さん(仮名・同年)が、敷地内の古井戸で井戸神の霊と遭遇した。霊は白い着物姿の美しい女性の姿で現れ、井戸の歴史的価値と保存の必要性を訴えた。
問題の井戸は江戸時代後期の掘削で、地域の干ばつや疫病の際に住民の生命を支えた記録が秩父市史に残されている。井戸神の証言内容は史実と完全に合致し、地元郷土史研究家も「井戸の歴史を正確に語っており、本物の井戸神と考える他ない」と評価している。
家主の田村義昭氏(62歳)は当初全面解体を予定していたが、加藤さんらの報告と祖母から聞いた井戸神の言い伝えを照合し、井戸の保存を決断。秩父市の協力で市営公園内に井戸を移設し、現在も「井戸神公園」として市民に親しまれている。
秩父市教育委員会文化財保護課の鈴木正明氏(55歳)は「神霊の直接的な働きかけにより貴重な文化遺産が保存された画期的事例。井戸の水質検査でも現在なお飲用可能な清浄さを保っている」と説明。移設後も井戸神の出現は継続し、参拝者の願いを叶える霊験で知られている。
加藤さんは現在大学院生として民俗学を専攻し、井戸神との出会いが研究の原点となっている。「神様との対話で、目に見えない文化の価値を学んだ。伝統的な信仰や遺産を次世代に継承する責任を感じる」と語る。秩父市では同事例を「市民参加型文化財保護の成功モデル」として全国に紹介している。




