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怖い話  作者: 健二
☆★★★
39/57

句読点のない森


 「一句さえ詠めたら、引き返すつもりだったのよ」

 母はそう言って、私の手のひらに古いカセットテープを乗せた。

 カセットの貼りラベルには、とがった万年筆で《樹海 1998.8.12》と走り書き。父が彼女を置いて姿を消した日付だ。


 私は俳句結社「雲上」を主宰する若手選者・上野遥うえの はるか。八月十六日、送り火のあとの午後──母の告白を鵜呑みにした私は、樹海へ向かう高速バスに乗っていた。

 「最後の俳句」を見つける。それが父を弔う唯一の供養だと信じて。



 富岳風穴の駐車場から樹海に入る際、ボランティア巡視員が言った。

 「今年はロープを辿っても戻れない例が多い。磁針が逸れるだけじゃなく、GPSの誤差も四、五十メートル出るんですよ。夕立の前に戻ってください」


 私はそれでも踏み込んだ。足元は黒い溶岩の凹凸、頭上は原生のコケに覆われたブナとヒノキ。蝉の声が樹冠で跳ね返り、方向感覚を削いでいく。

 方位磁石の北が微かに右へ揺れるたび、胸の拍動がずれた。



 午後三時十八分。樹間に白いテント地が見えた。

 近づくと、捜索隊が遺留品を集める簡易ベースだった。誰もいない。

 机の上に紐で束ねられたICレコーダーとログブック。レコーダーの画面が“REC 00:00:24”で点滅している。反射的にイヤホンを差し、再生ボタンを押した。


 ──ザザッ……パチ、パチ……

 ノイズの向こうで、男の低い声が一句を刻むように読んでいた。

 「青木ヶ原 句読点なく 風止まず」

 父の声だった。脳裏で二十五年ぶりの肉声が鐘のように鳴る。

 しかし次の瞬間、耳の奥を針で突くような悲鳴が重なった。

 「まだ 終われない まだ」


 慌ててイヤホンを外す。録音時間は 00:00:25 で止まっているのに、“再生位置 00:04:03”と表示されている。四分三秒。二倍、三倍速でも説明できない跳び方だ。



 気付けば空は鉛色。風が止み、蝉が黙る。

 カセットテープを再生するためのウォークマンを取り出す。イヤホンを接続し、再生。


 砂利の上を歩く足音だけが四十秒続いた後、父の息が途切れ途切れに乗る。

 『……戻れなくなった。方位磁石は……僕の遺影になった。』

 続いて、母が語ったことのない一句が録音されていた。

 『影ひとつ 踏めば沈みて 虫時雨』


 声が終わると同時に、森の奥からまったく同じ句が反復された。男ではない。高く湿った声、幼いようで枯れたようでもある。

 「かげひとつ ふめば……」


 足首に冷気が巻き付いた。見下ろすと、溶岩の割れ目に人差し指ほどの穴が無数に開き、そのすべてから白い息が噴き上がっている。

 私は反射的に父の俳句手帖を鞄へ押し込んだ。ページの隅でインクが滲み、“。”だけが盛り上がった水滴のように光る。



 夕立が始まった。雨粒は枝葉を打ち、林床を霧に変える。

 戻ろうとしたが、進行方向に黄色いビニール紐が張られていた。行きにはなかった。紐には油性ペンで《この先に遺体あり 山梨県警》と記されている。


 紐を跨げば帰れる。しかし跨いだ瞬間、遺体の側へ誘われる。

 躊躇していると、背後で「ガサ」と枝が折れた。振り返る。

 誰もいない。ただ、土壌の上に古いカセットテープが落ちている。ラベルは《樹海 2023.8.16》──今日の日付。


 指が勝手に動き、ウォークマンへカセットを押し込んだ。

 再生ボタン。


 『とどまれば 句読点だけ 増えにけり』


 自分の声だった。胸が凍る。私はまだ一句も詠んでいない。なのに録音されている。

 次いで父の声。『戻りなさい』

 そして母の声。『もう帰って』


 イヤホンを外すと、雨が止んでいた。樹海には不自然な静寂。ふと、方位磁針の針が激しく回転し、北が一点に固着した。父の失踪地点とされる東海自然歩道の合流点だ。


 私は黄色い紐を踏み越えた。



 そこは空洞だった。落石でできた洞穴の天井から冷気が滲み、中央に骨が寄せ集められていた。折れたビデオカメラ三台、紐を巻き取るプラスチックリール、そして白骨化した腕の先に残る万年筆。ペン先は錆びてなお輝いている。


 骨の山の影で、テープレコーダーが自動で回り始めた。

 『かえれない かえらせない 句の途中』

 父でも母でもない。さっき樹間で聞いた声。


 私は万年筆をつかみ、手帖の白紙を開いた。低く、ほとんど地鳴りのような嗤いが洞穴に満ちる。空気が粘つき、目の奥に墨汁を流し込まれたように視界が暗くなる。


 それでも、句を置けば帰れると確信した。

 私は震える筆跡で五七五を書き付けた。


 『影ふたつ 踏めば目覚めし 送り火よ』


 書き終えると同時に、洞穴を満たしていた濃霧が裂けた。外の夕焼けが林床を染め、蝉が一斉に鳴き始める。耳を切るような赤い声だった。私は走った。紐を掻き切り、方位磁石の北に従って。


終章


 翌朝、私は富岳風穴駐車場で倒れているところを巡視員に発見された。体温 34.5 ℃、軽度の低体温。

 警察の聴取で、私は洞穴の遺骨や機材の場所を説明したが、そこには何もなかったという。洞穴自体が確認できない。しかし私のザックには万年筆と、二本のカセットテープが残っていた。


 一本目《樹海 1998.8.12》には確かに父の声がある。

 だが二本目《2023.8.16》の磁気は空っぽだった。ウォークマンの再生時間だけが「00:05:17」でフリーズしており、巻き戻しも早送りも効かない。


 俳句手帖を開くと、私の書いた一句の末尾に、誰かの手で「。」が三つ打たれていた。

 ……。

 ページ全体にインクが滲み、句と句の間の空白が黒い湖のように広がる。その水面に父らしき影が揺れた瞬間、私は本を閉じた。


 樹海では、未完の句は森が預かるという。

 だから、もしあなたが夏の富士を歩き、木洩れ日に五七五が浮かぶことがあったら──声に出さず、丸ごと呑み込んでほしい。


 句読点のない森は、言葉の骨と肉を探している。

 そして次に迷う誰かの舌に、それを代筆させるのだから。


【了】


【舞台と実話】

・山梨県富士河口湖町──青木ヶ原樹海

・1960 年代から自殺名所として知られ、山梨県警の公表では 2004 年に 108 体、2010 年に 247 人が入林自殺を試み 54 体が発見された。

・方位磁石が狂う溶岩台地、樹間に張られるカラー紐(遺体捜索員が結ぶ目印)、夏場でも 20 ℃を超えない冷気などは実際の現象である。

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