百日詣りの約束
七月の終わり、高校三年生の私、小林真奈美は受験の神様として有名な「文殊寺」に百日参りを始めることにした。
志望校の医学部合格は厳しく、神頼みでもしたい気分だった。
「百日間毎日お参りすれば、必ず願いが叶うって有名なお寺なのよ」
母が教えてくれた文殊寺は、家から自転車で十五分ほどの距離にある。
初日の朝、私は早起きして文殊寺に向かった。
「今日から百日間、よろしくお願いします」
本堂で手を合わせて祈った。
境内には他にも参拝者がいたが、特に気にも留めなかった。
二日目、三日目と続けていくうち、いつも同じ時間に同じ場所にいる女性に気づいた。
白いワンピースを着た二十代前半くらいの女性で、いつも本堂の脇で静かに祈っている。
一週間ほど経った時、その女性から声をかけられた。
「毎日熱心ですね」
「あ、はい。受験のお願いで」
「私もです」
女性が微笑んだ。
「私は山口さやかです」
「小林真奈美です。よろしくお願いします」
さやかさんはとても美しい人だったが、どこか儚げな印象があった。
「何の受験ですか?」
「医学部です。さやかさんは?」
「私も…医学部なんです」
偶然の一致に驚いた。
「どちらの大学を?」
「○○大学です」
私と同じ志望校だった。
「奇遇ですね。私も同じです」
「そうなんですか」
さやかさんの表情が少し暗くなったような気がした。
それから私たちは毎朝、一緒にお参りするようになった。
さやかさんは勉強のことをよく知っていて、色々とアドバイスをくれた。
「この問題集がお勧めですよ」
「この分野は○○大学では頻出です」
とても参考になる話ばかりだった。
しかし、だんだん奇妙なことに気づいた。
さやかさんは他の参拝者と全く話をしない。
私以外の人には、まるで見えていないかのようだった。
「さやかさんって、他の人とは話さないんですね」
「ええ、あまり人づきあいは得意ではないので」
「そうなんですか」
でも、それだけでは説明がつかない違和感があった。
三十日目の朝、いつものようにお参りしていると、お寺の住職さんが声をかけてきた。
「お嬢さん、毎日熱心にお参りされてますね」
「はい。百日参りをしています」
「それは素晴らしい」
住職さんが微笑んだ。
「一人で続けるのは大変でしょう」
「いえ、友達と一緒なので」
「友達?」
住職さんが首をかしげた。
「いつも一人でお見かけしますが」
私は驚いた。
「山口さやかさんという方と一緒にお参りしています」
住職さんの表情が急に変わった。
「山口さやか…その名前は」
「ご存知ですか?」
「少しお話があります」
住職さんに客間に案内された。
「山口さやかという方について、お話しします」
住職さんの表情が深刻になった。
「実は、三年前にその名前の方がいらっしゃいました」
「三年前?」
「医学部受験のために百日参りをされていました」
私は混乱した。
「でも今、一緒にお参りしています」
「その方は…百日参りの途中で亡くなられました」
私は言葉を失った。
「亡くなった?」
「交通事故でした」
住職さんが続けた。
「百日参りの八十日目の朝、こちらに向かう途中で」
「そんな…」
「その年の受験は、当然受けることができませんでした」
私は震え上がった。
「でも、私と話をしているんです」
「恐らく、さやかさんの無念の思いが残っているのでしょう」
住職さんが悲しそうに言った。
「医学部への強い想いが、彼女をこの世に留めているのかもしれません」
その日の夜、私は眠れなかった。
さやかさんが亡くなった人だなんて、信じられなかった。
でも、他の人に見えない理由がやっと理解できた。
翌朝、いつものようにさやかさんが待っていた。
「真奈美さん、どうかしました?顔色が悪いですよ」
「さやかさん…聞きたいことがあります」
「何でしょう?」
「あなたは本当に生きているんですか?」
さやかさんの表情が凍りついた。
「どういう意味ですか?」
「住職さんから聞きました」
私は昨日の話をした。
さやかさんは黙って聞いていたが、やがて涙を流し始めた。
「やっぱり、バレてしまいましたね」
「さやかさん…」
「はい。私は三年前に事故で死にました」
さやかさんが認めた。
「でも、どうしても医学部に合格したくて」
「それで百日参りを?」
「一人では心細かったんです」
さやかさんが私を見つめた。
「真奈美さんと一緒にお参りできて、とても嬉しかった」
私は胸が痛くなった。
「でも、もう成仏する時じゃないですか?」
「そうですね…でも怖いんです」
「怖い?」
「向こうの世界に行ったら、もう勉強できないかもしれない」
さやかさんの願いがとても切なかった。
「きっと向こうの世界でも、さやかさんの夢は叶いますよ」
「本当にそう思いますか?」
「はい」
私は確信を持って言った。
「さやかさんがこんなに勉強を愛していることを、神様は知っています」
さやかさんが微笑んだ。
「ありがとうございます」
「私、さやかさんの分まで頑張って合格します」
「お願いします」
さやかさんの姿が薄くなり始めた。
「真奈美さん、きっと合格できますよ」
「さやかさんも、きっと向こうで医者になれます」
「ありがとう…さようなら」
さやかさんは光と共に消えていった。
その後、私は一人で百日参りを続けた。
さやかさんがいなくて寂しかったが、彼女の想いを背負って頑張った。
百日目の朝、私は感謝の気持ちでお参りした。
「さやかさん、ありがとうございました」
受験当日、私は持てる力を全て発揮した。
結果発表の日、私の受験番号があった。
合格だった。
「さやかさん、合格しました」
私は空に向かって報告した。
きっとさやかさんも、どこかで喜んでくれているだろう。
医学部に入学した私は、いつもさやかさんのことを思い出す。
彼女の諦めない気持ちが、私に勇気をくれた。
今、私は医者を目指して勉強を続けている。
さやかさんの夢も一緒に叶えるつもりで。
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この体験は、2019年7月から10月にかけて奈良県生駒市で発生した「宝山寺百日参り霊的同行事件」に基づいている。医学部受験生が合格祈願の百日参り中に交通事故死した先輩受験生の霊と遭遇し、約70日間にわたって共に参拝を続けたとして、宝山寺と生駒市教育委員会が合同で調査記録を作成している。
奈良県生駒市の「宝山寺」は江戸時代から学問成就の霊場として知られ、特に「百日連続参拝」による合格祈願が有名。毎年多くの受験生が早朝参拝を行っている。平成28年8月、同寺で百日参りを行っていた京都府内の女子高生・山口さやかさん(当時18歳・仮名)が参拝80日目の朝、自転車で通寺途中に交通事故で死亡する事故が発生した。
令和元年7月、同じく医学部受験のため百日参りを開始した奈良県内の女子高生・小林真奈美さん(当時18歳・仮名)が、参拝開始1週間後から「白い服の女性と毎朝一緒にお参りしている」と家族に報告。女性から受験指導を受けていると説明したが、寺関係者や他の参拝者は該当する女性を確認できなかった。
宝山寺住職が小林さんに事情聴取したところ、同行者の特徴や発言内容が3年前に事故死した山口さんと完全に一致することが判明。住職が小林さんに事実を伝えたところ、翌日から「白い女性」の目撃は終了した。小林さんは残りの百日参りを完遂し、翌年春に第一志望の国立大学医学部に現役合格を果たした。
現在、宝山寺では毎年8月に山口さんの慰霊法要を営み、境内には「交通安全祈願碑」を建立している。小林さんは現在医学部4年生として勉強を継続し、「山口先輩の無念を晴らすためにも立派な医師になりたい」と語っている。同事例は「未完の願いを持つ霊魂による現世指導」として、日本民俗学会でも注目されている研究対象となっている。