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怖い話  作者: 健二
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炎影(えんえい)

       

 二〇二四年二月九日、深夜一時三十分。

 私は東京都港区の再開発ビル「AKASAKA‐Lux」の二十二階にいた。職業は防災コンサルタント。竣工前の最終試験として、館内の自動火災報知と避難放送をチェックする役目だ。

 この敷地は、かつて「ホテルニュージャパン」が建っていた場所である。――一九八二年二月九日、一時三十六分、客室から出た火が全館に燃え広がり、三十三人が亡くなった。当時私は幼く、事件を覚えていない。ただ火災調査を学んだ者には“日本の転換点”と刷り込まれる事故だった。


 同行は音響調整を請け負う西脇。彼が非常放送卓の電源を入れると、天井スピーカーが砂を噛むノイズを吐いた。試験トーンが重畳し、フロアの非常灯が緑から白へ切り替わる。その瞬間、私のタブレットに警報ログが走った。


  火災表示 22F客室 2138 発報時刻 01:36


 部屋番号2138は設計図にない。そもそもオフィスビルだから客室など存在しない。ログを辿ると、続けて英語の文章が自動音声欄に入力されていた。


  “Open the window. I can’t breathe…”


 ――ホテルニュージャパン、38号室最初の通報メモと同じ文言だ。



 私は西脇と廊下を進んだ。誘導灯の先に、塞いだはずの扉が一つだけ開いている。ドアプレートには「2138」。中は30㎡ほどの客室だった。新築のはずなのに木製ヘッドボードが煤で鱗状に剝げている。カーペットに立つと、足裏が濡れた。散水配管を抜いたはずのスプリンクラーが、霧のように水を垂らしていた。


 天井の仕上げ材が焦げ、四角い穴があった。ホテル火災で延焼した部屋写真と一致している。私は反射的に熱感知器を探したが、真下のベッドには焦げたガウンが丸めて置いてある。そのポケットに、黒く溶けた折り畳み式キーホルダー。小さく“NEW JAPAN”と読めた。


 「こんな演出、施工会社に聞いてない」

 西脇が怯えた声で言う。私はタブレットで温度を測った。21℃。火は無いが、湿球温度が60%を超えた途端、空気に焦げたタール臭が混ざり始めた。


 床に落ちた火災放送用スピーカーがジジと鳴り、女の叫びが漏れた。


 「バルコニー側、炎が来る! 戸を破って!」


 公式資料では、窓が開かなかった客が隣室へ逃げようとドアを蹴ったという。その絶叫録音が残っていないのは有名だ。なのに声は完璧な音像定位で室内を周回し、私の肩を撫でる。



 逃げようと廊下へ出ると、床材が急にホテル当時の赤い絨毯へ変わった。左右の壁には白い消火器箱があり、片方の扉がからだ。ホテルでは初期消火に使えるはずの箱から消火器が無く、被害を拡大させた――教科書に載る一節が、三次元で再現されている。


 非常階段の扉を開ける。防火戸は新しいステンレスだが、手に触れた途端、レバーが茶色く朽ち、内側から錆がこぼれ落ちた。グリスに混じり、黒く炭化した紙片が一枚貼りつく。西脇が拾い上げた。焦げの隙から数字だけが読める。


  2025 / 02 / 09 / 01 : 36


 ちょうど一年後、同じ日付。同じ時刻。



 地下の電源室へ降りた。電力を全停止すれば錯覚も止むと考えたのだ。だが配電盤の主遮断器はレバーが外され、二重ロックの封印が割られている。誰が? 西脇が肩を震わせ「戻りましょう」という時、盤面のフェイルランプがだいだい一色で点き、異常通電を示した。


 高圧ケーブルの被覆が一斉に弾けた。紫のコロナ放電が走り、耳元で火花が弾く。ちょうどホテルニュージャパンの火災が「電源室から非常灯ケーブルに燃え移り、煙突効果で上階へ延焼した」と国会証言された通りの順序である。


 逃げ遅れた従業員の声が闇に流れ込む。


 「23階、停止。煙、逆流……」


 その絶叫の中に、一つだけ新しい単語が混ざった。


 「Lux――二二年式――スプリンクラー、機能せず」


 私たちがいるビルそのものを指していた。



 視界を真っ白な煙が埋め、方向感覚を失う中、西脇のスマホが警報を出した。プッシュ通知の日付は「2025/02/09」。タイトルに“赤坂再開発ビル火災”とある。報道機関のアプリだが、未来を配信している。本文には“スプリンクラー弁閉鎖 避難放送作動せず”と短くあり、死傷者数の欄がまだ「集計中」。


 私は悟った。去年の三十三の影が、このビルの欠陥を一年後まで成熟させようとしている――火の再演を。


 意識が遠のく中、耳だけが奇妙な対位法を聴き取った。

 一九八二年、英語と悲鳴が交差する古い館内放送。そして二〇二五年、最新の自動読み上げAIが同じ文を平板に重ねる。


 「火災が発生しました。落ち着いて、非常口へ向かってください」

 「出口が見つからない方は、窓へタオルを振って……」


 重ね合わせられた二つの声は、やがて完全なユニゾンになり、言語も年代も関係なく“助けろ”だけを残した。



 西脇と私はコードリールで遮断器をショートさせ、主母線を焼き切った。停電と同時にスプリンクラーが作動し、冷水の雨が地下に降る。火は無かったが、酸化銅の臭いが立ちこめ、煙の幻影を洗い落とした。


 地上へ逃げ込むと、街路は静かな未明。ビルはきれいなガラスの塔に戻り、非常放送も止んでいる。ただし二十二階の一角だけカーテンが燃えたように煤けていた。翌朝の工事責任者は「そんなカーテンはまだ吊っていない」と首を傾げた。


 後日、私の提案で全フロアのスプリンクラー弁と避難放送を再検査した。結果、二十二階のみダンパーの配管径が設計と異なり、通水圧が半分しか出ないことが判明。さらに火災時に第一報を送るFIRE‐SIG配線が他回路と誤結線。放置すれば、確かに水も放送も動かない“再現”が起こり得た。


 私は委員会で資料を読み上げ、結論を添えた。

 「一九八二年と同じ時間に試験を行わなければ、誰も欠陥に気付かなかった」



 その夜、修正が完了した防災盤に立ち寄ると、時計はちょうど一時三十六分。私は西脇のイヤホンで無音のスピーカーを試し聴きした。

 そこに、わずかな残響が揺れていた。男の日本語で、単語は四音だけ。


 「――ありがとう――」


 火と煙に取り残され、誰にも届かなかった感謝の言葉。このビルが完成後、客室など存在しない二十二階に泊まるはずの誰かの声かもしれない。私は身を震わせながらも、初めてビルを見上げ、頭を下げた。


 翌年の二月九日、午前三時。私は意図的に非常ベルを鳴らし、実地避難訓練を行った。夜勤者から苦情が来たが、配管も放送も正常に働いた。

 訓練終了後、誰もいない二十二階に立つと、カーペットが乾き切った床に、水玉だけが二列、足跡のように残っていた。それは火災が起こる未来線を――いや、起こらずに済んだ未来線を、静かに歩き去る誰かの痕跡だった。


                (了)


―実在の事故―

・1982年2月9日 ホテルニュージャパン火災(東京都千代田区) 死者33名

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