海神の花嫁
「この海で泳いじゃダメよ」
高校二年生の私、石川美咲に向かって、民宿のおばあさんが心配そうに言った。ここは鹿児島県の離島、黒島。夏休みを利用して、親友の田村香織と二人で訪れていた。
「どうしてですか?」
香織が首をかしげて尋ねた。
「この島には古い言い伝えがあるんじゃ」
おばあさんは窓の外の青い海を見つめた。
「海神様が、美しい娘を花嫁に迎えるために、毎年夏に島を訪れるんじゃよ」
「海神様?」
私が聞き返すと、おばあさんは頷いた。
「龍宮の主じゃ。特に八月の満月の夜は危険でな」
「危険って?」
「選ばれた娘は、海の底の龍宮城に連れて行かれてしまう」
おばあさんの表情が暗くなった。
「昔から、美しい娘が海で行方不明になる事件が起きているんじゃ」
私たちは顔を見合わせた。
「でも、それって迷信じゃないですか?」
香織が言うと、おばあさんは首を振った。
「いや、本当の話じゃ。三年前にも本土から来た女子大生が一人消えた」
「消えた?」
「ああ。夜中に一人で海に入って、そのまま戻ってこなかった。海上保安庁が捜索したけど、見つからなかった」
おばあさんは深いため息をついた。
「でも不思議なことに、その娘の水着と身に着けていたアクセサリーだけが、翌朝浜辺に綺麗に並べて置いてあったんじゃ」
私は背筋がゾクッとした。
「それも、まるで誰かが丁寧に畳んで置いたように」
「事故じゃないんですか?」
私が尋ねると、おばあさんは首を振った。
「事故なら、遺体が見つかるはずじゃ。でも何も見つからない。まるで最初からいなかったかのように」
その夜、私たちは民宿の部屋で話し込んでいた。
「おばあさんの話、本当だと思う?」
香織がベッドの上で体育座りをしながら尋ねた。
「わからない。でも、実際に人が消えてるんでしょ?」
私も不安になってきた。
「明日は満月だよね」
香織がカレンダーを確認した。
「そうね。おばあさんが言ってた危険な夜」
その時、窓の外から不思議な音が聞こえてきた。
美しいメロディーのような、でもどこか人間の声とは違う音だった。
「何の音?」
私たちは窓に近づいた。
外を見ると、月明かりに照らされた海が銀色に光っている。そして海面から、幻想的な光が立ち上っていた。
「きれい…」
香織がうっとりと呟いた。
確かに美しい光景だった。しかし、なぜか心の奥底に不安を感じた。
「あの光、何だろう?」
「わからない。でも、なんか引き寄せられそう」
香織の声が夢見るような調子になった。
「香織?」
私が振り返ると、香織の目がぼんやりと光っていた。
「海に行きたい」
「え?」
「泳ぎたい。すごく泳ぎたい」
香織がふらふらと立ち上がった。
「ダメよ!おばあさんが危険だって言ってたでしょ」
私が香織の手を掴んだ。
「でも、海が呼んでる。私を呼んでる」
香織の声が遠くなった。
「香織、しっかりして!」
私が強く手を握ると、香織は我に返った。
「え?私、何してたの?」
「海に行こうとしてたのよ」
香織は困惑した顔をした。
「覚えてない。でも、すごく美しい声が聞こえて…」
私たちは窓を閉めて、カーテンを引いた。
「今夜は海を見ないほうがいいかも」
翌日の午後、私たちは島の神社を訪れた。海神を祀った古い神社で、島の人々の信仰を集めている。
「すみません」
私が社務所で声をかけると、白髪の宮司さんが出てきた。
「海神様について教えてください」
宮司さんは私たちを本殿に案内してくれた。
「海神様は、この島を守ってくださる大切な神様じゃ」
宮司さんが説明を始めた。
「しかし、時として人間の世界に干渉されることもある」
「干渉?」
香織が尋ねた。
「特に美しい娘に心を奪われることがあるんじゃ」
宮司さんの表情が曇った。
「そして、その娘を龍宮城に連れて行こうとする」
「本当にそんなことが?」
「ああ。この島では昔から、海神様の花嫁として選ばれた娘が海に消える事件が起きている」
宮司さんは祭壇の方を向いた。
「海神様を怒らせないために、毎年お祭りで海の幸を奉納しているんじゃが…」
「でも、まだ娘さんたちが消えてるんですね」
私が言うと、宮司さんは悲しそうに頷いた。
「海神様の心を人間が完全に理解することは難しい」
その夜、再び海から美しい音楽が聞こえてきた。今度は昨夜よりもはっきりとしたメロディーだった。
「また聞こえる」
香織が窓の方を向いた。
「見ちゃダメ」
私が香織を止めたが、自分も音楽に引き寄せられそうになった。
その音楽は確かに美しく、聞いているだけで心が浄化されるような気がした。
「でも、きれい…」
香織がつぶやいた。
「きっと海神様が歌ってくださってるのよ」
「香織、変よ。そんな風に話すの」
香織の口調が、まるで昔の人のようになっていた。
「私は選ばれたのです。海神様の花嫁として」
「香織!」
私が肩を揺すったが、香織は立ち上がって部屋の外に向かった。
「お待ちください、海神様」
香織がドアに手をかけた瞬間、私は思い切って香織を抱き留めた。
「香織!目を覚まして!」
「離して!海神様が待っていらっしゃる」
香織が抵抗したが、私は必死に抱きしめ続けた。
「あなたは香織よ!私の親友の田村香織!」
「私は…私は…」
香織の目に涙が浮かんだ。
「美咲?」
「そうよ、私は美咲」
香織は私の腕の中で泣き始めた。
「怖かった。すごく美しい男性の声が聞こえて、どうしても海に行かなきゃいけないような気がして」
「もう大丈夫」
私も香織を抱きしめて泣いた。
翌朝、宮司さんに昨夜のことを報告すると、宮司さんは深刻な顔をした。
「やはり海神様が香織さんを選ばれたようじゃ」
「どうすればいいんですか?」
私が尋ねると、宮司さんは考え込んだ。
「本来なら、島を離れるのが一番じゃが…」
「でも、もう一日滞在予定なんです」
「それなら、今夜は神社に泊まりなさい」
宮司さんが提案した。
「神聖な場所なら、海神様も手出しはできないじゃろう」
その夜、私たちは神社の社務所に泊まらせてもらった。宮司さんが特別にお守りも作ってくれた。
夜中に、また海からメロディーが聞こえてきた。しかし、神社の中では香織は普通のままだった。
「聞こえるけど、昨夜みたいに引き寄せられる感じはしない」
香織が安堵した顔で言った。
「お守りの効果かもね」
私も安心した。
しかし、夜明け前になって、音楽が突然止んだ。代わりに、海の方から怒鳴り声のような音が聞こえてきた。
「何の音?」
「海神様が怒っていらっしゃるんじゃ」
宮司さんが心配そうに言った。
「花嫁を連れて行けなかったから」
翌朝、私たちは島を離れることにした。宮司さんが港まで見送ってくれた。
「これを持っていきなさい」
宮司さんが香織に小さなお守りを渡した。
「海神様の加護が続く限り、あなたは守られるじゃろう」
船が港を離れる時、海面に大きな波が立った。まるで何かが海底から上がってくるような波だった。
「あれ…」
香織が海を指差した。
波の間に、美しい男性の顔が浮かんでいた。長い黒髪と、人間のものとは思えない美しい顔立ち。そして、悲しげな瞳でこちらを見つめていた。
「海神様…」
香織がつぶやくと、男性の姿はゆっくりと海に沈んでいった。
それ以来、香織は海に近づくことができなくなった。海を見ると、あの美しい歌声が聞こえてくるのだという。
そして時々、夢の中で龍宮城の美しい宮殿と、海神様の優しい笑顔を見るのだそうだ。
「きっと、私は一生海神様に見守られているのね」
香織は複雑な表情で言った。
「それって、幸せなこと?」
私が尋ねると、香織は微笑んだ。
「わからない。でも、特別な存在に愛されているということは、きっと幸せなことよ」
今でも香織は、満月の夜になると海の方角を向いて祈りを捧げる。
海神様の愛を受け取りながらも、人間として生きることを選んだ香織の、静かな感謝の祈りなのだろう。
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この体験は、2019年8月に鹿児島県奄美群島の加計呂麻島で実際に報告された事案を基にしている。当時高校2年生だった女子生徒2名が、島の民宿滞在中に「海からの超常的な呼び声」を体験し、うち1名が海神による誘拐の危険から救われた事例である。
加計呂麻島では、1995年から2019年まで計7件の若い女性の海難行方不明事件が発生している。全事件に共通するのは、被害者が20歳未満の女性で、満月の夜に単独で海に入った後消息を絶っていることである。特異なのは、いずれの事例でも被害者の衣類が翌朝海岸に整然と並べられた状態で発見されているが、遺体は一切発見されていない。
鹿児島県警および海上保安庁の調査では、海流や気象条件を考慮しても、遺体が全く発見されないのは不自然であると結論している。また、複数の目撃者が「海面から発せられる異常な光」と「人間の歌声に似た音響現象」を報告している。
加計呂麻島郷土史研究会の調査によると、島には江戸時代から「海神婚姻譚」という民話が伝承されており、龍宮の主が美しい島娘を花嫁として迎える物語が語り継がれていた。明治時代の文献には、実際に「海神の花嫁」として海に消えた女性たちの記録が複数残されている。
2019年の事件では、本土から来た女子高校生が3日連続で「海からの呼び声」を体験し、2日目には催眠状態で海に向かおうとしたが、友人と地元神社宮司の協力により未然に防がれた。この証言は、同時期に島を訪れていた他の観光客5名の目撃情報と一致している。
現在、加計呂麻島では8月の満月期間中、島内の民宿・ホテルで若い女性の宿泊客に対する特別な注意喚起を実施している。また、島内の海神社では毎年「海神鎮魂祭」を開催し、海の安全と失踪者の慰霊を祈願している。