霧行進
青森県八甲田山系。二〇二四年一月、私は国土地理院から依頼を受け、雪中行軍遭難事件(一九〇二年)のルートをLiDARで測量していた。来年公開するVR教材の下準備だ。同行は地元山岳救助隊の補佐・成田三曹。祖父が旧陸軍歩兵第五連隊の生き残りだという。
気温マイナス一五度、風速二十三メートル。ブナの立ち枯れが笛のように鳴り、雪面は粉塵の嵐だった。私は三脚につけたスキャナを三六〇度回し、点群を確認する。霧に似た吹雪の粒子が写り込み、山腹の幾何データが黄灰色に濁る。削除すると再び浮く。まるで「別の層」が張り付いてくるようだった。
午後二時。八甲田の冬はもう薄暮で、周囲は白と鉛色の境目もない。時折、足元の雪が浅く響き、誰かが列を成して後から歩いてくる錯覚があった。成田が無線で「方位、三三五度。旧・田代新道の標木が二本残ってるはずだ」と告げる。私はコンパスをかざし、雪を払う。その瞬間、針が一回転して止まった時刻表示に変わった。
1902/01/23 14:00
遭難が始まった正確な時刻である。コンパスは電子機器ではない。凍った汗が背筋を流れた。
スキャナを再起動すると、ヘッドセットに肉声が混ざった。乾いた喉声で「休メ」と命令が出、続いて複数の靴が雪を踏む低いリズム。第五連隊二百一人が猛吹雪の中で「休め」の姿勢を取り、途切れたまま凍死したと記録にある。私はボリュームを絞ったが、声は骨伝導のように頭蓋へ響く。
成田が「風下へ下りましょう」と手招く。吹きさらしの斜面を避け、樹林帯へ入る。枝に積もった雪塊が落ち、視界を覆った。その白暗闇の中で、私は“雪に埋もれたテント列”を見た。布は黄土色の軍用幕、縫目から氷の針が生え、内部では影が微動だにせず座っている。目を凝らせば、影は基地外套を着た兵士のシルエットだった。フードの隙間から黒いこめかみが粉になって崩れ落ちる。百二十二年前の凍傷。
「走れ!」成田が肩を突く。突風がテントを紙のように剥ぎ、雪煙に巻き込む。同時に耳許で号笛が吹かれた。八甲田で使われた信号ラッパの音程と同じ「ハ長調」。それが止むと、静まり返った森で別の音が浮き上がる。乾いた木製ストックが地面を叩く音。八人、十人、いや数え切れない足跡が円を描いて接近してくる。
私はスキャナを捨て、成田と稜線へ上がった。白い霧の向こうから隊列が姿を現す。実体はなく、雪粒が兵士の輪郭を描くホログラムのよう。しかし足音だけは雪を圧する質量を持ち、地面が微かに揺れる。成田が敬礼しかけたのを私は制した。「隊列を横切るな」と祖父に教わったと言う。
そのとき、腰のGPSロガーが異常音を鳴らした。ディスプレイが凍り付き、座標の代わりに文字列を表示する。
2024/02/04 07:18 M7.4 三陸沖
明日の未明。私は気象庁の訓練データだろうと思ったが、通信機能は圏外である。成田が「津波注意報レベルです」と素早く言った。彼は自衛隊の情報端末でも同じ表示を見たらしい。吹雪の底で、誰か―否、何百という霊が「次の災害」を雪煙に刻んでいる。八甲田の死者は何度でも隊列を組み直し、海鳴りにも似た咳声で歩き続けるのだ。
* * *
下山後、私たちは青森駐屯地の通信室で衛星回線を確保し、気象庁へ照会した。回答は「そのような予測は出していない」。しかし翌朝七時十八分、三陸沖でM7・4の地震が発生。テレビ画面に黄色の津波注意報が帯状に流れた。観測された津波は四十センチで被害は少なかったが、鉄道は運休し沿岸の避難指示が夜まで解除されなかった。
私のLiDARには一つだけファイルが残っていた。雪面を俯瞰する立体データに、不可解な点列が織り込まれている。解析すると、標高差を無視した「一本道」が浮かび上がった。旧陸軍が想定した最短進軍ルート。だが終点が海に突き出した断崖で終わる。そこは津波の引き際に露出する海蝕台で、地図にない“行き止まり”だった。
音声波形にも何度も同じ号令が刻み込まれていた。
「突ッ走れ!」
一九〇二年一月二十三日、指揮官が方向を誤認して吹き荒れる地吹雪へ突進を命じたという、その一言だった。
* * *
八甲田山に登るなら、視界ゼロのホワイトアウトでは絶対に足を止めてほしい。吹きすさぶ中でラッパが聞こえたら、後退するしかない。霧は単なる気象現象ではない。百年以上前から吹きだまり続ける亡霊の息が、次に海をも揺らす風向きを私たちの耳へ教えているのだから。
(了)
―実在の出来事―
・1902年1月23日 八甲田雪中行軍遭難(青森県・死者199名)
※ 作中2024年2月4日 三陸沖地震