深夜の学校放送
七月の蒸し暑い夜、私は学校に残っていた。翌日の文化祭準備で、どうしても今夜中に仕上げなければならない作業があったのだ。
私は県立桜丘高校二年の田村咲だ。放送委員として、文化祭の開会式で流すビデオの編集をしていた。時計は午後十時を回っている。
「もう少しで終わる」
放送室で一人、パソコンに向かいながら呟いた。校舎は静まり返り、エアコンの音だけが響いている。
その時、校内放送のスピーカーから雑音が聞こえてきた。
「ザザザ…」
私は手を止めて耳を澄ませた。放送設備の電源は切ってあるはずなのに。
「ザザザ…こちらは…」
微かに声が聞こえる。女子生徒のような、若い女性の声だった。
「誰か他にも残ってるのかな」
私は放送室の機材を確認したが、すべて電源が切れている。それなのに、雑音は続いていた。
「ザザザ…助けて…ザザザ…」
今度ははっきりと「助けて」という言葉が聞こえた。
私は血の気が引いた。まさか、どこかで事故が起きているのではないか。
急いで廊下に出て、校舎内を見回した。しかし電気がついている教室はなく、人の気配もない。
放送室に戻ると、まだ雑音が続いていた。
「ザザザ…なぜ…なぜ私だけ…ザザザ…」
声は悲痛で、深い絶望に満ちていた。
「一体何なの?」
私は震え声で呟いた。機材の電源は確実に切れているのに、声は聞こえ続けている。
「ザザザ…三階の…音楽室…ザザザ…」
音楽室?私は心臓が早鐘を打つのを感じた。
桜丘高校の三階音楽室は、五年前から使われていない。理由は…そこで生徒が自殺したからだ。
「まさか…」
私は唇を震わせた。その生徒は放送委員だった先輩で、松本美里という名前だった。
美里先輩は私が中学生の時に亡くなったので、直接面識はない。でも、放送委員の間では有名な話だった。
完璧主義で責任感が強く、いつも一人で全ての仕事を抱え込んでいた。そして文化祭の直前、準備の重圧に耐えきれずに…
「ザザザ…誰か…聞いて…ザザザ…」
声は続いている。もしこれが美里先輩の声だとしたら…
私は意を決して、三階に向かった。
階段を上る足音が、静寂の中で異様に響く。三階の廊下は薄暗く、音楽室だけが妙に冷たい空気を発していた。
音楽室の前に立つと、中から微かに光が漏れているのが見えた。
「誰かいるの?」
私は震え声で呼びかけた。
返事はない。でも、放送の声は続いている。
「ザザザ…一人じゃ…無理だった…ザザザ…」
私は恐る恐るドアを開けた。
音楽室の中は薄暗かったが、ピアノの上に古いカセットテープが置かれているのが見えた。そこから青白い光が放たれている。
「これは…」
近づいてみると、手書きで「松本美里 最後の放送」と書かれたラベルが貼ってあった。
テープは再生されていないのに、声が聞こえ続けている。
「ザザザ…もし誰かこれを聞いているなら…ザザザ…」
私は息を呑んだ。これは美里先輩が残した、最後のメッセージなのだ。
「ザザザ…一人で抱え込んじゃダメ…ザザザ…」
その瞬間、ピアノの前に人影が現れた。
制服を着た女子生徒の姿。顔は見えないが、肩まである髪が特徴的だった。
「美里先輩…」
私が呟くと、人影がゆっくりと振り返った。
美しい顔立ちだったが、目は深い悲しみに満ちていた。
「後輩…ね」
美里先輩は微笑んだが、その笑顔は痛々しかった。
「はい。田村咲です。今、放送委員をしています」
私が答えると、先輩の表情が少し和らいだ。
「そう…放送委員」
「先輩、何を伝えたかったんですか?」
私が尋ねると、先輩は悲しそうに首を振った。
「私は…完璧にやろうとしすぎた」
「完璧に?」
「文化祭の準備、放送の仕事、全部一人でやろうとして…」
先輩の声は震えていた。
「誰にも助けを求められなくて、最後は…」
私は胸が痛んだ。美里先輩は責任感の強さが仇となって、一人で全てを抱え込んでしまったのだ。
「でも今は、誰かに伝えたくて戻ってきたんですね」
私が言うと、先輩は頷いた。
「そう。後輩たちに同じ思いをしてほしくなくて」
「私も、文化祭の準備を一人で抱え込んでました」
私は正直に白状した。
「みんなに迷惑をかけたくなくて、頼むことができなくて」
先輩の表情が心配そうになった。
「ダメよ。一人じゃ限界がある」
「でも…」
「助けを求めることは、恥ずかしいことじゃない」
先輩は優しく言った。
「みんなで作り上げる文化祭の方が、きっと素晴らしいものになる」
私は涙が出そうになった。美里先輩は、自分の辛い経験を通して、大切なことを教えてくれているのだ。
「分かりました。明日、みんなに助けてもらいます」
私が約束すると、先輩の顔に本当の笑顔が浮かんだ。
「それでいい。放送委員は、みんなの声を届ける仕事でしょう?」
「はい」
「一人の声じゃなくて、みんなの声を大切にして」
先輩の姿が薄くなり始めた。
「美里先輩」
「もう大丈夫。あなたなら、きっと素晴らしい放送委員になる」
先輩は最後にもう一度微笑んで、光と共に消えていった。
カセットテープも同時に消え、音楽室は静寂に包まれた。
翌日、私は放送委員のメンバーに昨夜のことを話し、文化祭準備を手伝ってもらった。
「一人で抱え込むなんてダメだよ」
「困った時はお互い様でしょう」
仲間たちは快く協力してくれた。
文化祭当日、開会式の放送は大成功だった。一人では絶対に作れなかった、温かみのある内容になった。
放送が終わった後、ふと三階を見上げると、音楽室の窓に人影が見えた。
美里先輩が、満足そうに微笑んでいた。
そして口の形で「ありがとう」と言っているのが分かった。
私も小さく手を振り返した。美里先輩は、きっと安らかな気持ちで天国に向かったことだろう。
それ以来、桜丘高校の放送委員の間では、こんな合言葉ができた。
「一人じゃ無理だったら、みんなで頑張ろう」
美里先輩が教えてくれた、大切な言葉だ。
――――
この体験は、2019年7月に神奈川県内の県立高校で報告された現象を基にしている。当時高校2年生だった放送委員の女子生徒が、「深夜の学校で謎の校内放送を聞いた」という証言を残している。
該当校では2014年に放送委員だった2年生女子が校内で自殺する事件が発生していた。被害者は文化祭準備の責任者を務めており、過度のストレスが原因とされていた。事件後、彼女が最後に使用していた3階音楽室は使用禁止となっていた。
2019年7月、文化祭準備で遅くまで学校に残っていた放送委員の生徒が、電源の切れた校内放送設備から女性の声を聞いたと報告。声は「助けて」「一人じゃ無理だった」といった内容で、約30分間続いたとされている。
翌日、同生徒が音楽室を調査したところ、ピアノの上に古いカセットテープが置かれているのを発見。テープには2014年に亡くなった生徒の名前が手書きで記されていたが、再生しても何も録音されていなかった。
この出来事をきっかけに、同校の放送委員活動は複数人でのチームワークを重視する方針に改められた。以降、類似の超常現象は報告されていない。
学校関係者は「過労による幻聴の可能性」として公式には超自然現象を否定しているが、地元では「責任感の強い先輩の霊が後輩を導いた」として語り継がれている。




