深夜三時の校内放送
夏休みも終わりに近づいた八月の末、私は静岡県にある県立高校の図書委員として、夏期講習の準備で学校に残っていた。私の名前は田村由香、高校二年生。その日は珍しく一人きりで、薄暗い図書室で本の整理をしていた。
時刻は午後七時を回っていた。校舎には私以外誰もいないはずだった。警備員さんも九時の見回りまでは来ない。
「そろそろ帰ろうかな」
本を書棚に戻しながら呟いた時、校内にチャイムが響いた。
『ピンポンパンポーン』
放送のチャイムだった。でも、この時間に放送があるはずがない。
『えー、こちらは放送委員会です』
若い女子生徒の声が校内に響いた。でも声の調子がおかしかった。まるで機械のように感情がこもっていない。
『本日の連絡事項をお知らせします』
私は手を止めて放送に耳を傾けた。
『明日の登校時刻は午前八時です。遅刻しないよう注意してください』
夏休み中なのに、なぜ登校時刻の連絡?
『なお、昨日体調を崩して早退した二年三組の佐藤美咲さんですが』
私の心臓が跳ね上がった。佐藤美咲は私の同級生だった。でも彼女は三年前、二年生の夏休み中に交通事故で亡くなっている。
『本日も体調が優れないため欠席いたします』
放送が続く。
『美咲さんの回復を、みなさんでお祈りしましょう』
私は震え上がった。三年前に死んだ美咲の欠席連絡を、誰が放送しているのか。
『それでは、本日の放送を終わります』
放送が終わった後、校内は再び静寂に包まれた。
私は慌てて荷物をまとめて図書室を出た。でも廊下を歩いていると、また放送が始まった。
今度は男子生徒の声だった。
『こちらは生徒会です。明日の体育祭について連絡します』
体育祭は九月の行事だが、美咲が生きていた頃は八月に行われていた。
『二年三組の佐藤美咲さんは、リレーの第一走者として頑張ってください』
また美咲の名前だった。
『美咲さんのご家族も応援に来られる予定です』
私の足が竦んだ。美咲の両親は、娘が亡くなってからこの町を離れている。
放送室の前を通りかかると、中から微かに光が漏れていた。誰かいるのか。
恐る恐る覗いてみると、放送室には誰もいなかった。でもマイクの電源は入っていて、緑のランプが点滅している。
その時、背後から声がした。
「由香ちゃん」
振り返ると、美咲が立っていた。三年前と全く変わらない姿で、夏服を着て微笑んでいる。
「み、美咲…?」
「久しぶり。元気だった?」
美咲は普通に話しかけてきた。まるで生きているかのように。
「美咲、あなた…」
「明日の体育祭、楽しみだね」
美咲は首を傾げた。
「でも私、体調が悪くて練習に参加できてないの」
「美咲、あなたは…」
「みんなに迷惑かけちゃってるかな?」
美咲は心配そうな顔をした。
「リレーの練習、ちゃんとできてる?」
私は理解した。美咲は自分が死んだことに気づいていない。
「美咲、今は何年だと思う?」
「え?二〇一八年だけど」
美咲が亡くなったのは二〇一八年。今は二〇二一年だった。
「今日は何月何日?」
「八月二十八日。明日が体育祭でしょ?」
美咲の時間は、亡くなった日で止まっていた。
「美咲、ちょっと座って」
私は美咲を保健室に連れて行った。
「どうしたの?私、そんなに顔色悪い?」
「美咲、あなたに話さなければいけないことがあるの」
私は慎重に言葉を選んだ。
「三年前、あなたは事故に遭ったの」
「事故?」
美咲は首を振った。
「私は元気よ。ちょっと体調が悪いだけ」
「美咲、よく思い出してみて。最後に覚えてることは何?」
美咲は考え込んだ。
「えーっと…体育祭の準備委員会が終わって、家に帰る途中…」
美咲の表情が曇った。
「横断歩道を渡ってて…トラックが…」
「そうよ。あなたはその時…」
「死んだの?」
美咲は信じられないという顔をした。
「私、死んじゃったの?」
私は頷いた。
美咲は暫く呆然としていたが、やがて涙を流し始めた。
「じゃあ、体育祭は?」
「中止になったの。みんな、とても悲しんでた」
「そっか…」
美咲は俯いた。
「でも、なんで私はここにいるの?」
「わからない。でも、毎年この時期になると校内放送が聞こえるって噂があったの」
私は思い出した。
「先輩たちが言ってた。『深夜に美咲の放送が聞こえる』って」
「私が放送してたの?」
「多分そう。体育祭のことや、自分の欠席連絡を」
美咲は考え込んだ。
「私、体育祭をとても楽しみにしてたの」
「知ってる」
「リレーで一位を取って、みんなを喜ばせたかった」
美咲は悔しそうに言った。
「それができなくて、ずっと心残りだったのかも」
その時、また校内放送が響いた。
『えー、二年三組の佐藤美咲です』
今度は美咲自身の声だった。
『明日の体育祭、私は参加できません』
私と美咲は顔を見合わせた。
『でも、みんなが頑張ってくれることを信じています』
美咲の目が光った。
『二年三組のみんな、リレー頑張って』
「これ、私の本当の気持ちかも」
美咲が呟いた。
『クラスのみんなが一位を取れるよう、私も応援してます』
放送は続いた。
『それから、図書委員の田村由香ちゃん』
私の名前が呼ばれて驚いた。
『いつも図書室の整理、お疲れさま』
「美咲…」
『私の分まで頑張って』
美咲は微笑んだ。
『それでは、これで最後の放送を終わります』
『みんな、ありがとう』
放送が終わると、美咲の姿がゆっくりと薄くなり始めた。
「消えちゃうの?」
「うん。もう心残りはないから」
美咲は安らかな表情をしていた。
「由香ちゃん、ありがとう。話を聞いてくれて」
「美咲…」
「みんなによろしく伝えて」
「約束する」
美咲は最後に微笑んで、光の中に消えていった。
翌日、私は美咲のクラスメートだった友人たちに会いに行った。
「美咲に会ったの?」
「本当に?」
みんな驚いていたが、美咲からのメッセージを伝えると、涙を流して喜んでくれた。
「美咲らしいね」
「最後まで私たちのことを心配してくれてたんだ」
それから、学校で深夜の校内放送が聞こえることはなくなった。
美咲はきっと、安らかに眠りについたのだろう。
でも今でも図書室で遅くまで作業をしていると、時々優しい視線を感じることがある。きっと美咲が見守ってくれているのだと思う。
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この体験は、2021年8月に静岡県掛川市の県立高校で報告された現象を基にしている。同校では2018年から毎年夏休み期間中に「無人の校内で放送設備が作動し、既に卒業・転校した生徒や故人の名前を含む校内放送が流れる」という現象が確認されていた。
発端は2018年8月28日に発生した交通事故で、同校2年生の女子生徒が下校途中に大型トラックにはねられ死亡した事故だった。被害者は放送委員会と体育祭実行委員会に所属しており、翌日に予定されていた体育祭を楽しみにしていたという。
事故後、同校では毎年8月下旬になると以下の現象が報告されている:
- 午後7時~9時頃に無人の校内で放送設備が自動作動
- 故人の名前で欠席連絡や体育祭関連の放送が流れる
- 放送室に人影は確認されないが、機器の電源は入っている
- 複数の在校生・教職員が現象を目撃・録音
学校側は設備の点検や電気系統の調査を実施したが、技術的な異常は発見されなかった。2021年8月に図書委員の女子生徒が「故人との対話体験」を報告した後、現象は収束している。
現在も同校の旧校舎には放送記録の一部が保管されているが、詳細な公開は控えられている。