廃病院の手術室
夏休みも終わりに近づいた八月の終わり、私たち四人は新潟県の山間部にある廃病院に向かっていた。私は高校二年生の田村優希。一緒にいるのは幼馴染の健太、クラスメイトの理沙、そして理沙の彼氏の大輔だった。
「本当にここで間違いない?」
理沙がスマートフォンの地図を見ながら不安そうに呟いた。
「間違いないよ。ネットで調べた通りの場所だ」
大輔が自信満々に答える。
私たちが向かっているのは、二十年前に閉鎖された総合病院だった。心霊スポットとして有名で、YouTuberたちがよく肝試しの動画を撮影する場所としても知られている。
「でも、なんで急にこんなところに?」
健太が運転しながら疑問を口にした。
「実は最近、変な夢を見るんだ」
大輔の表情が曇った。
「どんな夢?」
私が助手席から振り返って尋ねた。
「白衣を着た医者が、手術室で何かを探してるんだ。でも患者はいない。ただ手術台に血だけが残ってて…」
「うわ、気持ち悪い」
理沙が顔をしかめた。
「それだけじゃないんだ。その医者が振り返ると、顔が…」
大輔は言いかけて口を閉じた。
「顔がどうしたの?」
「顔がないんだ。目も鼻も口もない、のっぺらぼうで」
車内が静まり返った。
「それで、その病院がここだと?」
健太が確認した。
「夢の中で見た景色と、ネットの写真が全く同じだったんだ」
大輔は窓の外を見つめた。
「もしかしたら、何かのメッセージかもしれない」
午後三時頃、私たちは目的の廃病院に到着した。四階建ての建物は、確かにネットで見た写真と同じだった。
「思ってたより大きいね」
理沙が見上げながら言った。
建物の外壁は苔で覆われ、窓ガラスの多くが割れている。入口のドアは半開きのままで、中から冷たい風が流れてきた。
「本当に入るの?」
私が躊躇していると、大輔が先頭に立った。
「ここまで来たんだから、行こう」
建物の中は想像以上に荒れ果てていた。受付カウンターは埃まみれで、天井から垂れ下がった配線が風で揺れている。
「二階に手術室があるはずだ」
大輔がスマートフォンのライトを点けて階段を上がり始めた。
二階の廊下は一階よりもさらに不気味だった。病室のドアが並んでいるが、どれも開いたままで、中は真っ暗だった。
「手術室はこっち」
廊下の奥に「手術室」と書かれたプレートが見えた。ドアは閉まっている。
「開けるよ」
大輔がドアノブに手をかけた瞬間、中から金属音が響いた。
「何か落ちた?」
健太が身を乗り出した。
ドアを開けると、手術室の中央に古い手術台が置かれていた。周りには錆びた医療器具が散乱している。
「大輔の夢と同じだ…」
理沙が震え声で呟いた。
確かに手術台には、古い血痕のような茶色いシミが残っていた。
「ここで何があったんだろう?」
私が呟いた時、突然部屋の温度が下がった。
息が白くなるほど急激に寒くなる。
「おかしい…夏なのに」
健太が腕をさすった。
その時、手術台の向こう側に人影が現れた。
白衣を着た男性が、手術器具を探すように動き回っている。
「あ、あれ…」
大輔が指を震わせながら指差した。
人影は私たちに気づいていない様子で、何かを探し続けている。時々手術台を覗き込んだり、器具棚を調べたりしている。
「夢で見たのと全く同じだ」
そして人影がゆっくりとこちらを振り返った。
顔があるべき場所に、何もなかった。
目も鼻も口もない、完全にのっぺらぼうだった。
「きゃあ!」
理沙が悲鳴を上げて健太にしがみついた。
しかし人影は私たちを見ても何も反応せず、再び何かを探し始めた。
「逃げよう」
私が提案したが、大輔は動かなかった。
「待って。何を探してるんだろう?」
人影は手術台の下を覗き込んだり、壁際の棚を調べたりしている。まるで大切な物を失くしたかのようだった。
その時、手術室の隅で光るものを見つけた。
「あそこに何かある」
近づいてみると、古いメスが床に落ちていた。刃の部分が月光で光っている。
「もしかして、これを探してるのかな?」
私がメスを拾い上げると、人影の動きが止まった。
こちらを向いたまま、じっと見つめている。顔がないのに見つめられているのがわかるのが不気味だった。
「渡してみたら?」
健太が小声で提案した。
私は恐る恐るメスを人影に向けて差し出した。
すると人影はゆっくりと近づいてきた。冷たい風が頬を撫でる。
人影がメスを受け取った瞬間、急に表情が現れた。
目と鼻と口が浮かび上がり、四十代くらいの男性の顔になった。
「ありがとう」
男性は安堵の表情を浮かべた。
「ずっと探していました」
「あなたは…?」
大輔が恐る恐る尋ねた。
「この病院で外科医をしていた者です」
男性は悲しそうな顔をした。
「二十年前、この手術室で事故がありました」
「事故?」
「緊急手術中に、私が手を滑らせてメスを落としてしまったんです」
男性の声は後悔に満ちていた。
「そのわずかな時間が命取りでした。患者さんを救えなかった」
私たちは言葉を失った。
「それからというもの、その時のメスを探し続けています」
「どうしてですか?」
理沙が涙声で尋ねた。
「そのメスで、もう一度手術をやり直したかったんです」
男性は手に持ったメスを見つめた。
「患者さんを救いたかった。でも、もう遅すぎました」
「まだ遅くないかもしれませんよ」
私が言うと、男性は驚いた顔をした。
「どういうことですか?」
「そのメスで、今度は誰かを救えるかもしれません」
「でも私はもう…」
「先生の技術と愛情は、きっと今でも生きています」
健太も一緒に話した。
「誰かが困った時、先生の想いが助けになるかもしれません」
男性は考え込んだ。
「そうでしょうか?」
「はい。きっとそうです」
大輔が確信を込めて言った。
「先生の夢を見たのも、きっと何かの意味があります」
男性は微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。久しぶりに希望を感じました」
そして男性の姿が薄くなり始めた。
「もう行かれるんですね」
私が寂しそうに言うと、男性は頷いた。
「はい。おかげで心残りがなくなりました」
「メスはどうされるんですか?」
「これは置いていきます」
男性はメスを手術台に置いた。
「もし誰かがこのメスを必要とする時が来たら、きっと私の想いも一緒に使ってもらえるでしょう」
男性は私たちに深々とお辞儀をして、光の中に消えていった。
手術室には再び静寂が戻った。しかし、さっきまでの恐ろしい雰囲気はなく、どこか温かみを感じた。
「先生、安らかに眠ってください」
私たちは手を合わせて祈った。
帰り道、大輔が運転しながら話した。
「不思議だけど、もうあの夢は見なくなりそうな気がする」
「きっと先生も納得されたのね」
理沙が後部座席から答えた。
「でも、あのメスはどうなるんだろう?」
健太が疑問を口にした。
「きっと必要な人のところに届くよ」
私は確信していた。
その三ヶ月後、その廃病院で救急車が出動する事故があった。ハイカーが足を滑らせて大怪我をした際、偶然居合わせた研修医がその場で応急手術を行い、命を救ったという。
その時使用されたメスが、手術室に置かれていた古いメスだったという話を、後日ニュースで知った。
研修医の証言によると「手術中、まるで熟練の医師に手を導かれているような感覚があった」とのことだった。
きっとあの外科医の先生が、新しい命を救う手助けをしたのだろう。
――――
この体験は、2019年8月に新潟県南魚沼市の旧総合病院で起きた現象を基にしている。当該施設は1999年に閉鎖された総合病院で、地元では心霊現象の目撃談が相次いでいた場所として知られていた。
2019年夏、近隣住民の高校生グループが「手術室での医師の霊の目撃」「医療器具を探す白衣の人影」などの体験を報告していた。これらの証言は、1998年に同病院で発生した医療事故と符合する内容だった。
当時の記録によると、緊急手術中に執刀医が器具の落下により手術に支障をきたし、患者の救命に至らなかった事例が確認されている。執刀医は事故後に深刻な精神的ダメージを受け、医師を辞職していた。
特筆すべきは、目撃証言の約3ヶ月後、同施設近くで発生した登山事故において、偶然現場にいた医学部生が旧手術室から持ち出したとされる医療器具を使用して応急手術を行い、重傷者の命を救ったことである。
この医学部生の証言では「手術中に熟練医師の指導を受けているような感覚があった」「手の動きが自然に導かれた」との内容が記録されている。使用された器具の中に、廃棄処分されていたはずの1990年代製の手術用メスが含まれていたことが後に判明している。
現在、当該施設は取り壊されているが、地域住民の間では「医師の霊が最後の使命を果たした」との話が語り継がれている。