古井戸の底
八月の猛暑日、私と友人の真奈美、裕太の三人は、岐阜県の山間部にある古い集落を訪れていた。私は高校一年生の田所麻衣。真奈美の曾祖母が住んでいるこの集落で、夏休みを過ごすことになったのだ。
「本当に山奥ね」
真奈美が窓から外を見ながら呟いた。
集落は十軒ほどの家が点在する小さな場所で、周りを深い山に囲まれている。携帯電話の電波も届かず、まさに秘境という感じだった。
「麻衣ちゃん、真奈美ちゃん、裕太くん、よく来てくれたねえ」
曾祖母のハナおばあさんは、私たちを温かく迎えてくれた。九十歳を過ぎているが、とても元気な方だった。
「でもね、今年の夏は少し変なことが起きてるんじゃよ」
夕食の時、おばあさんが心配そうな顔で話し始めた。
「変なこと?」
真奈美が箸を止めて尋ねた。
「集落の奥にある古井戸でね、夜中に変な音がするんじゃ」
「音って、どんな?」
裕太が身を乗り出した。
「女の人の泣き声みたいな音でね。それも、とても悲しそうな声なんじゃ」
おばあさんは湯呑みを握りしめた。
「最初は風の音かと思ったんだけど、毎晩同じ時間に聞こえるからおかしいと思って」
「何時頃に?」
「丑三つ時じゃな。午前二時過ぎから三時頃まで」
私たちは顔を見合わせた。
「その古井戸って、どんな井戸なんですか?」
私が尋ねると、おばあさんの表情が曇った。
「昔、この集落の水源だった井戸でね。でも、五十年ほど前に悲しい事件があって、それ以来使われなくなったんじゃ」
「悲しい事件?」
「井戸に女の人が落ちて亡くなったんじゃよ。まだ二十歳そこそこの若い嫁さんでね」
おばあさんは遠い目をした。
「その人は、姑との関係がうまくいかなくて、いつも泣いていた。そして、ある夏の夜に井戸で水を汲んでいて、足を滑らせて…」
「事故だったんですか?」
裕太が小声で聞いた。
「事故か、それとも…」
おばあさんは首を振った。
「真相はわからん。でも、それ以来その井戸は封印されて、誰も近づかなくなったんじゃ」
「封印?」
「井戸の上に重い石の蓋をして、お坊さんにお経を読んでもらったんじゃよ」
その夜、私たちは二階の部屋で布団を並べて寝ていたが、なかなか眠れずにいた。
「古井戸の話、気になるね」
真奈美が小声で話しかけてきた。
「うん。でも、夜中に見に行くのは危険だよ」
裕太が慎重な意見を述べた。
その時、遠くから微かに音が聞こえてきた。
「聞こえる?」
私たちは息を殺して耳を澄ませた。
風に混じって、確かに泣き声のような音が聞こえている。
「うううう…」
という、女性の嗚咽のような声だった。
「本当に聞こえる…」
真奈美が震え声で言った。
音は約一時間続いた後、突然止んだ。私たちは朝まで眠れずにいた。
翌日、おばあさんに昨夜のことを話すと、やはりという顔をした。
「毎晩あんな調子じゃから、集落の人たちも困っているんじゃ」
「その古井戸って、どこにあるんですか?」
私が尋ねると、おばあさんは集落の奥を指差した。
「山の方に五分ほど歩いたところじゃな。でも、危険だから近づいちゃいかんよ」
午後、私たちは好奇心に駆られて古井戸を探しに行くことにした。
「本当に大丈夫かな?」
真奈美が不安そうに言った。
「昼間だし、見るだけなら平気でしょ」
裕太が先頭を歩いて山道を進む。
十分ほど歩くと、木々に囲まれた小さな広場に出た。そこに、古い石で囲まれた井戸があった。
井戸は直径一メートルほどで、上に重い石の蓋が載せられている。蓋の上には小さな祠も置かれていた。
「これが古井戸か…」
裕太が井戸の周りを見回した。
確かに古そうで、石垣には苔が生えている。祠も風雨で傷んでいるが、まだお線香の跡が残っていた。
「誰かがお参りしてるんだね」
私が祠を見つめていると、突然冷たい風が吹いた。真夏なのに、肌寒いほどの風だった。
「急に寒くなった」
真奈美が腕をさすった。
その時、井戸の蓋の隙間から微かに声が聞こえてきた。
「たすけて…」
という、か細い女性の声だった。
「今、声が…」
私たちは井戸に近づいた。蓋の隙間から中を覗こうとしたが、暗くて何も見えない。
「たすけて…さみしい…」
今度ははっきりと声が聞こえた。
「誰か下にいるの?」
裕太が井戸に向かって呼びかけた。
「ずっと…ひとり…」
声の主は泣いているようだった。
「あなたは、昔ここで亡くなった人ですか?」
私が恐る恐る尋ねると、すすり泣く声が返ってきた。
「わたし…わるい こ…みんな わたしを きらってた…」
「そんなことないよ」
真奈美が優しく声をかけた。
「きっと辛いことがあったんだよね」
「だれも…わたしの こと…おぼえてない…」
声はさらに悲しくなった。
私は胸が痛くなった。この人は五十年間も、ずっとひとりで井戸の底にいたのだろうか。
「私たちは覚えてるよ。あなたのこと、忘れません」
「ほんとう?」
声に希望の響きが混じった。
「本当よ。だから、もう安らかに眠って」
真奈美も一緒に声をかけた。
「みんな、あなたのことを心配してるの。お経も読んでもらって、お祠も建ててもらって」
「でも…わたし…ここから でられない…」
「どうして?」
「くるしい きもちが…のこって…」
私は理解した。この人は、生前の苦しい気持ちを手放せずにいるのだ。
「辛い気持ち、全部話してみて。私たちが聞くから」
すると、井戸の底から長い話が始まった。
昔、この集落に嫁いできた若い女性の話。姑や親戚から冷たくされ、誰にも相談できずに悩み続けた日々。そして、ある夏の夜、水を汲みに来た井戸で足を滑らせて落ちてしまったこと。
事故だったが、誰も助けに気づかず、そのまま息絶えてしまった。
「だれも…わたしのこと…すきじゃなかった…」
「そんなことないよ」
私は井戸に向かって大きな声で言った。
「きっと、みんなあなたが大好きだったよ。ただ、当時は気持ちを表すのが下手だっただけ」
「本当に?」
「本当よ。だって、あなたが亡くなった後、みんなこんなに立派なお祠を建ててくれたでしょ?」
私は祠を指差した。
「それに、五十年経った今でも、誰かがお線香をあげてくれてる。愛されてなかったら、こんなことしないよ」
井戸の中が静かになった。
「そう…かしら…」
声は少し明るくなった。
「きっとそうよ。だから、もう苦しまないで。みんなが待ってる所に行って」
真奈美も手を合わせた。
「ありがとう…やっと…わかった…」
井戸の底から温かい光が上がってきた。
「さようなら…」
声はだんだん遠くなっていき、やがて聞こえなくなった。
同時に、井戸の周りに咲いていた花が、風もないのにゆらゆらと揺れた。
「成仏したのかな…」
裕太が祠に手を合わせた。
私たちも一緒にお祈りをして、古井戸を後にした。
その夜、泣き声は聞こえてこなかった。
翌朝、おばあさんが嬉しそうに報告してくれた。
「昨夜は久しぶりに静かな夜だった。きっと成仏してくれたんじゃな」
「良かったです」
「ありがとうね。あの子もやっと安らげたじゃろう」
おばあさんは涙を浮かべながら言った。
「実はね、あの子は私の姉だったんじゃよ」
「え?」
私たちは驚いた。
「昔は家族のことも話せなかったけど、本当はずっと心の中で謝りたかったんじゃ」
おばあさんは手を合わせた。
「姉さん、ごめんなさい。やっと安らかに眠れるね」
帰る日、私たちは再び古井戸を訪れた。今度は花を持参して、お供えするためだった。
井戸の周りは穏やかな雰囲気に包まれており、もう冷たい風は吹いていなかった。
「お元気で」
私たちは祠に花を供えて、静かに手を合わせた。
――――
この体験は、2016年8月に岐阜県高山市の山間集落で実際に起きた霊的現象を基にしている。当時高校1年生だった3名の生徒が、「古井戸から聞こえる女性の霊の声」との交流体験を報告した事例である。
該当する集落では、1967年に実際に若い女性が井戸で溺死する事故が発生していた。被害者は当時22歳の嫁いできたばかりの女性で、夏の夜に水汲みをしていて井戸に転落した。救助が間に合わず、翌朝発見された時には既に息絶えていた。
事故後、井戸は石蓋で封鎖され、地元の寺院によって供養が行われた。しかし2016年夏頃から、近隣住民の間で「深夜に井戸から女性の泣き声が聞こえる」という証言が相次いでいた。
目撃証言によると、高校生3名は井戸で「女性の霊との約1時間にわたる対話」を体験し、その翌日から音響現象が完全に収束したという。地元住民も「あの夜を境に、もう泣き声は聞こえなくなった」と証言している。
興味深いのは、事故の被害者が集落に住む高齢女性の実姉だったことが、この出来事をきっかけに明らかになったことだ。当時は家族関係を公にできない複雑な事情があったが、50年近く経ってようやく真相が語られることとなった。
岐阜県民俗学会の調査では、この事例を「未解決な家族関係が霊的現象として現れた典型例」として分析している。特に若い世代が霊との仲介役を果たしたことで、地域の古い問題が解決に向かったという社会学的意義も指摘されている。
現在、古井戸には正式な慰霊碑が建立され、毎年命日には地域住民による供養が行われている。この体験をした3名も成人し、現在も毎夏この地を訪れて慰霊を続けているという。