豊浜隧道
国道229号、神恵内村と古平町をつなぐ旧・豊浜トンネルは、九六年二月に崩落事故を起こして封鎖された。海食崖が一気に落ち、観光バスを押し潰して二十名が亡くなったあの場所だ。二〇二四年の今も、開口部はコンクリートの壁で塞がれ、献花台だけが波打ち際に残る。
私は地質調査会社の若手技師で、近年頻発する豪雨災害に備え「封鎖トンネル内の残存水脈を調べろ」という道庁からの委託で来た。同行者は嘱託の元道警鑑識・坂東。彼は事故当夜、遺体搬出に立ち会ったという。
夕刻、臨時に設けた横穴から内部へ入る。発電機を回すと、照明は洞内を淡い橙色で染めた。コンクリ壁の海塩が白い結晶を吹き、アスファルトには潮溜まりが残っている。私は水位計を並べ、レーザー測距器で天井クラックを測った。
「音、聞こえるか?」
ヘルメット越しに坂東が囁く。耳を澄ますと、潮騒の裏に“カン、カン”という金属音が混じった。トンネルのどこかで、鉄パイプが吊られて触れ合うような高い音。だが風速計はゼロを示している。
測距器のディスプレイが一瞬ブラックアウトし、緯度経度に続けて奇妙な文字列を表示した。
1996/02/10 08:05
事故が起こった時刻だ。機械がバッテリーを誤読したのだと自分に言い聞かせながら、私はデータを再取得した。ところが数値は同じ時刻で上書きされる。
奥へ進むにつれ、天井の補強鋼板にはっきりとした手形の錆が浮きはじめた。背の低い子どもの掌ほどの跡が無数に連なり、出口方向を指している。豊浜事故では修学旅行の小学生が多数犠牲になったと聞いた。私は寒気を覚え、坂東の背後に身を寄せた。
「慌てるな。彼らは出口を探しているだけだ」
彼はそう呟くと、測域レーザーを受け取って先頭に立った。すると空気の密度が変わり、ヘッドライトの輪郭がぶれた。その瞬間、トンネル全体がバス車内に変貌した――と錯覚する映像が走った。座席の布地、荷棚のプラスチック、天井の冷気吹出口。どこにもシートベルトが見当たらない。九六年当時、路線バスに設置は義務づけられていなかった。
「伏せろ!」
坂東が叫ぶと同時に、頭上から凄まじい破砕音。私は咄嗟に身を沈めた。だが落石はなく、ライトの先にはただ塩の柱が立っているだけだった。耳鳴りが止み、代わりに“水滴の落ちる音”が耳孔を埋めた。ぽとり、ぽとり――均等ではない。まるで点呼のようなリズム。二十滴で一巡して、また一滴目に戻る。
崩落事故の死者数と同じ二十。
「彼らを数えきったら戻れなくなる」
坂東の声は震えていた。私は水位計を切り離し、来た道を駆け戻る。出口近く、壁面の献花台がライトに浮かぶ。そこに花束はなく、濡れたランドセルが重ね置かれていた。十校以上の校章が混ざり、肩紐の金具が錆びた鈴のように揺れて“カン、カン”と鳴っている――洞内で聞いたのと同じ金属音だ。
私は視線を引き剝がし、臨時口の梯子をよじ登った。地上に出ると、夕陽が沈み切る直前で、冬の海は磯鴨の羽の色をしていた。坂東が肩で息をし、「録れている」とポケットから古いボイスレコーダを差し出した。
再生すると、潮騒に紛れて柔らかな女の声が入っている。
『すみません、うちは席を譲ります……次で、降りますから……』
事故車両の最後部にいた女性添乗員の肉声だと坂東は言った。公式には残っていない声が、二十八年ぶりに録音された。
* * *
札幌へ戻った夜、私はデータを確認した。測距器のファイルは二十個とも壊れていたが、代わりに同時刻、別フォルダにGPSログが自動生成されていた。その経路は石狩湾から厚岸、襟裳岬を経て、十勝沖で停止している。まるで津波伝播図のような曲線だった。
翌朝のニュースが告げる。『道東沖でM7・2の地震、豊浜を含む日本海沿岸に津波注意報』。発表時刻は午前八時五分――測距器が示した事故時刻と分単位まで同じ。
私は理解した。豊浜隧道に取り残された“二十の雫”は、自分たちを潰した海の圧力を今も測り、変調して未来の警報に変えている。だが雫が落ちきるたび、誰かが再びカウンターを回さねばならない。今回その役を背負ったのは、事故を知る最後の世代である私たちだった。
* * *
もしあなたが北海道の海岸道路で、トンネル入口から鈴のような“カン、カン”を聴いたなら、耳を疑わず引き返してほしい。それは枯れた献花でも風鈴でもない。圧死したランドセルの金具が、次の崩落――あるいは津波の秒読みを叩いているのだ。
数えきってはいけない。二十の合図を完奏させたとき、海はまた突然、山のかたちを変える。
(了)
――実在の出来事――
・1996年2月10日 豊浜トンネル(北海道古平町)崩落事故 死者20名
※ 作中2024年 北海道沖地震・津波注意報