稲荷様の怒り
八月の終わり、私と友人の愛子は、千葉県の田園地帯にある愛子の祖父の家を訪れていた。私は高校一年生の松田香織。祖父の家は古い農家で、周りには広大な田んぼが広がっている。
「今年の稲の成長が異常なのよ」
祖父の山田さんが、夕食の時に心配そうな顔で話し始めた。
「異常って、どんな風に?」
愛子が箸を止めて尋ねた。
「稲が真っ黒になってしまうんじゃ。病気でもないのに、一晩で黒く枯れてしまう」
祖父は窓の外を見つめた。
「もう三つの田んぼがやられてしまった。このままじゃ今年の収穫は全滅じゃ」
「それって、いつ頃から?」
私が尋ねると、祖父は考え込んだ。
「七月の下旬からかな。ちょうど、あの稲荷神社で変なことが起き始めた頃と同じじゃ」
「稲荷神社で何が?」
「夜中に狐の鳴き声がするようになったんじゃよ。それも、普通の狐じゃない。まるで人間が泣いているような、不気味な声でな」
愛子と私は顔を見合わせた。
「その稲荷神社って、どこにあるんですか?」
「この家から歩いて十分ほどの所じゃな。昔からこの地域の田んぼを守ってくださる神様なんじゃが…」
祖父の表情が曇った。
「最近、その神社でよくないことがあったんじゃよ」
「よくないこと?」
「町の開発業者が、神社の土地を買い取ろうとしているんじゃ。稲荷神社を取り壊して、ショッピングセンターを建てるという話でな」
「それで神様が怒ってるんですか?」
愛子が心配そうに言った。
「そうかもしれん。稲荷様は特に怒りっぽい神様だからな。祟りを恐れて、みんな開発に反対しているんじゃが…」
その夜、私たちは二階の部屋で寝ていたが、真夜中に不気味な声で目が覚めた。
「ケーン、ケーン」
という、確かに狐の鳴き声だった。しかし、普通の狐の声とは明らかに違う。まるで人間の叫び声のように聞こえる。
「聞こえる?」
愛子が小声で話しかけてきた。
「うん。怖い声…」
窓から外を見ると、田んぼの向こうに赤い光がぼんやりと見えた。
「あれが稲荷神社かな?」
光はゆらゆらと揺れている。まるで狐火のようだった。
狐の鳴き声は一時間ほど続いて、やがて静かになった。しかし、その後で今度は太鼓のような音が聞こえてきた。
ドンドンと重い音が、夜の静寂を破る。
「お祭りの太鼓みたい」
愛子が呟いた。
「でも、こんな時間にお祭りなんてないよね」
翌朝、祖父に昨夜のことを話すと、深刻な顔をした。
「やっぱり聞こえたか。毎晩あんな調子なんじゃ」
「太鼓の音も聞こえましたけど」
「ああ、それは稲荷様の神楽じゃな。昔は例祭の時に奉納していたんじゃが、今は誰も舞う人がいない」
「神様が自分で神楽を舞ってるんですか?」
私が驚くと、祖父は頷いた。
「きっとそうじゃろう。神様が怒りを表している証拠じゃ」
午後、私たちは稲荷神社を見に行くことにした。田んぼのあぜ道を歩いていくと、確かに所々で稲が真っ黒になっているのが見えた。
「本当に黒くなってる…」
愛子が驚いた顔で稲を見つめた。
黒くなった稲は、まるで火で焼かれたようになっている。しかし、隣の稲は青々として元気だった。
「不思議だね。病気なら周りにも広がりそうなのに」
稲荷神社は、田んぼに囲まれた小高い丘の上にあった。赤い鳥居と小さな社殿、そして何体かの狐の石像が置かれている。
しかし、神社の雰囲気が何となく重苦しかった。普通なら神聖で清々しい感じがするはずなのに、どこか怒りに満ちているような気配がする。
「お参りしてみよう」
私たちは鳥居をくぐって社殿に向かった。
手を合わせて頭を下げると、突然強い風が吹いた。木々がざわめき、落ち葉が舞い上がる。
「風、急に強くなった」
その時、社殿の中から声が聞こえてきた。
「だれが参ったか」
低く、威厳のある声だった。
「あ、あの…」
私が震え声で答えようとすると、声が続いた。
「人間どもか。また来たのか」
「私たちは山田さんのお孫さんの友人です」
愛子が勇気を出して話しかけた。
「山田の孫か…」
声が少し和らいだ。
「山田は昔からわしを敬ってくれる良い男じゃ。その孫なら信用しよう」
「あの、稲が黒くなってるのは…」
私が恐る恐る尋ねると、稲荷様の声に怒りが戻った。
「わしの怒りじゃ!」
社殿が震えるような大きな声だった。
「この神社を壊そうとする不届き者どもへの警告じゃ!」
「開発業者のことですか?」
「そうじゃ!何百年もこの地を守り続けてきたというのに、金のために神社を壊そうとは何事か!」
稲荷様の怒りは激しかった。
「わしを怒らせるとどうなるか、思い知らせてやる!」
「でも、稲を枯らしたら農家の人たちが困ります」
愛子が必死に訴えた。
「山田おじいさんも、とても心配してるんです」
「それは…」
稲荷様の声が迷うように揺れた。
「山田には申し訳ないことをした。しかし、わしの怒りを表すには他に方法がない」
「もっと違う方法があるんじゃないですか?」
私が提案すると、稲荷様は考え込んだ。
「どのような方法じゃ?」
「例えば、開発業者の人たちに直接お話しするとか…」
「人間どもは神の声など聞かん」
「でも、私たちには聞こえてます」
愛子が言うと、稲荷様は少し驚いたようだった。
「確かに…お前たちには聞こえるな」
「きっと心の清い人には聞こえるんですよ」
私が続けた。
「開発業者の人たちも、神様の気持ちがわかれば考え直すかもしれません」
「そうかもしれんな…」
稲荷様の声が少し希望を含んだ。
「では、お前たちに頼みがある」
「何でしょう?」
「開発業者に伝えてくれ。この神社を壊せば、必ず祟りがあると」
「祟り…ですか?」
「そうじゃ。しかし、神社を残してくれるなら、わしはこの地に豊作をもたらそう」
稲荷様の提案は興味深かった。
「わかりました。伝えてみます」
「頼んだぞ」
その時、社殿の奥から白い狐が現れた。美しい毛並みで、目が金色に光っている。
「私の使いじゃ。お前たちを見守ってやろう」
白い狐は私たちの周りを一回りして、再び社殿の中に消えていった。
翌日、私たちは祖父に稲荷様との会話を話した。祖父は驚いたが、すぐに開発業者に連絡を取ってくれた。
「今日の午後、業者の人たちがここに来ることになった」
「本当ですか?」
「ああ。お前たちの話を聞いて、一度神社を見てみたいと言っているんじゃ」
午後、スーツを着た三人の男性が祖父の家を訪れた。開発業者の責任者たちだった。
「神社で実際に神様の声を聞いたって本当ですか?」
責任者の田村さんが半信半疑の顔で尋ねた。
「はい。一緒に行ってみませんか?」
私たちは業者の人たちを稲荷神社に案内した。
「確かに古い神社ですね」
田村さんが社殿を見上げた。
「でも、神様の声なんて…」
その時、突然風が吹いて、社殿の鈴が鳴った。
「だれが来たか」
稲荷様の声が響いた。
業者の三人は顔を青ざめさせた。
「今の声…」
「神社を壊そうとする者どもか」
稲荷様の声は厳しかった。
「あ、あの…」
田村さんが震え声で答えようとしたが、言葉にならない。
「この神社を壊せば、必ず祟りがある。しかし、残してくれるなら、この地に繁栄をもたらそう」
稲荷様は約束を述べた。
「選択は貴様たちに任せる」
業者の人たちは震えながら頷いた。
「わ、わかりました。開発計画を見直します」
「賢明な判断じゃ」
稲荷様の声が満足げになった。
「この土地の神を敬う者には、必ず良いことがある」
その後、開発業者は正式に計画を中止し、代わりに神社の修復費用を寄付してくれた。
稲荷様の怒りも収まり、黒くなった稲は数日で元の緑色に戻った。そして、その年の秋には記録的な豊作となった。
私たちは毎年夏になると、この稲荷神社にお参りに行っている。神様はいつも私たちを温かく迎えてくれる。
そして、白い狐も時々姿を見せて、私たちを見守ってくれているのだった。
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この体験は、2018年8月に千葉県香取市の農村部で実際に発生した現象を基にしている。当時高校1年生だった2名の女子生徒が、「稲荷神社での神との対話体験」を報告し、地域の開発問題解決に貢献した事例である。
該当地域では2018年7月下旬から、原因不明の稲の枯死現象が発生していた。農業技術センターの調査でも病害虫や土壌異常は確認されず、科学的な原因は特定できなかった。枯死は特定の田んぼに限定され、隣接する田んぼには全く影響がなかった。
同時期に、地域の稲荷神社周辺で「夜間の狐の鳴き声」と「太鼓音」が連日観測されていた。地元住民の多くがこれらの現象を「神の怒り」と解釈していた。背景には、大手流通企業による神社境内を含む土地買収計画があり、地域住民との間で対立が続いていた。
目撃証言によると、高校生2名が神社で「稲荷神との直接対話」を体験し、その内容を開発業者に伝えたところ、業者側が計画の見直しを決定したという。興味深いことに、計画中止の発表翌日から枯死していた稲が回復し始め、音響現象も収束した。
千葉県文化財保護協会の調査では、この稲荷神社が室町時代創建の由緒ある神社であることが判明している。地域の農業発展に深く関わってきた歴史があり、住民の信仰も厚い。
開発業者は最終的に計画を完全撤回し、代わりに神社修復のための基金を設立した。現在、この神社は県の文化財に指定され、地域のシンボルとして保護されている。
2018年秋の収穫量は過去20年で最高を記録し、「稲荷様のご加護」として地元で話題となった。この体験をした2名も現在は大学生となり、毎年神社の例祭に参加して体験談を語り継いでいる。