夏祭りの神様
八月の終わり、私たち高校一年生の三人組は、祖母の故郷である山梨県の小さな村を訪れていた。私は中村あかり、友人の佐々木ゆい、それに幼馴染の田村こうたと一緒だった。
「あかりちゃん、久しぶりねえ」
祖母は私たちを温かく迎えてくれた。しかし、どこか表情が曇っているように見えた。
「おばあちゃん、どうしたの?」
「実はね、今年の夏祭りで変なことが起きているのよ」
祖母は私たちをお茶の間に呼び、重い口調で話し始めた。
「毎年八月三十日に村の鎮守の森で夏祭りをするのだけれど、今年は様子がおかしいの」
「どんな風に?」
ゆいが興味深そうに尋ねた。
「祭りの最中に、神様が怒っているような現象が起きるのよ。突然風が吹いたり、提灯が勝手に消えたり」
「それって、何か原因があるの?」
こうたが身を乗り出した。
祖母は困ったような顔をした。
「実は、今年から祭りの規模を小さくすることになったの。村の人口が減って、若い人もいなくなって」
「それで神様が怒ってるってこと?」
「そうかもしれない。でも、もっと深刻なことがあるのよ」
祖母は声を落とした。
「祭りの準備をしていた村の人たちが、次々と体調を崩しているの。原因不明の高熱が出て、うなされるのよ」
私たちは顔を見合わせた。
「お医者さんに診てもらっても、何も異常は見つからない。でも、みんな同じことを言うの」
「何て言うの?」
「『神様が怒っている』って」
翌日、私たちは村の鎮守の森を訪れることにした。祭りは明日に迫っており、村の人たちが準備に追われている様子だった。
しかし、皆どこか元気がない。お年寄りばかりで、若い人の姿はほとんど見えなかった。
「ここが神社ね」
森の奥に、古い木造の神社があった。『山津見神社』と書かれた看板が立っている。
「山津見神社…山の神様を祀ってるのね」
ゆいが看板を読み上げた。
神社は思っていたより大きく、立派な建物だった。しかし、どこか荘厳で近寄りがたい雰囲気がある。
「お参りしてみる?」
私たちは参道を歩いて本殿に向かった。境内は静寂に包まれており、時折鳥のさえずりが聞こえるだけだった。
本殿の前で手を合わせていると、突然強い風が吹いた。木々がざわめき、落ち葉が舞い上がる。
「風、強いね」
こうたが髪を押さえながら言った。
しかし、不思議なことに風は神社の境内だけで吹いているようだった。参道を少し戻ると、全く風を感じない。
「おかしいね、ここだけ風が…」
その時、本殿の奥から太鼓の音が聞こえてきた。
ドンドンという重い音が、森に響く。
「誰か太鼓を叩いてるの?」
ゆいが振り返ったが、境内には私たち以外誰もいない。
太鼓の音はだんだん大きくなっていく。そして、今度は笛の音も聞こえてきた。
祭囃子の音楽だった。
「でも、祭りは明日じゃ…」
私が呟いた時、本殿の扉がギィと音を立てて開いた。
中から白い着物を着た女性が現れた。長い黒髪を後ろで結い、顔には白い面をつけている。
女性は私たちを見つめると、ゆっくりと踊り始めた。手に鈴を持ち、シャンシャンと音を立てながら舞う。
「神楽…?」
こうたが小さな声で言った。
女性の踊りは美しく、神秘的だった。しかし、どこか悲しげに見えた。
踊りが終わると、女性は私たちに向かって話しかけた。面の下から聞こえる声は、年老いた女性のもののようだった。
「若い者たちよ」
「は、はい」
私は緊張しながら答えた。
「この村の祭りを知っているか?」
「はい、明日ですよね」
「そうじゃ。しかし、今年の祭りは昔とは違う」
女性は悲しそうに首を振った。
「昔はもっと大勢の人が参加していた。村中の人が集まって、一晩中踊り明かしたものじゃ」
「人が減って、寂しくなったんですね」
ゆいが同情するように言った。
「それだけではない」
女性の声に怒りが込められた。
「祭りの意味を忘れてしまったのじゃ」
「祭りの意味?」
「この祭りは、山の神様に一年の感謝を捧げ、来年の豊作と村の安全を祈る大切な儀式じゃ」
女性は本殿を振り返った。
「しかし、今の人たちは形だけを残そうとしている。心がこもっておらん」
「それで神様が怒ってるんですか?」
こうたが尋ねた。
「神様は怒っているのではない。悲しんでおられるのじゃ」
女性は鈴を振った。澄んだ音が境内に響く。
「若い者たちよ、頼みがある」
「何でしょう?」
「明日の祭りで、昔ながらの神楽を舞ってくれぬか」
「え?でも私たち、神楽なんてできません」
私は慌てて言った。
「案ずるな。わしが教えてやろう」
女性は再び踊り始めた。今度は私たちに向けて、手の動きをゆっくりと見せてくれる。
「まず、このように手を上げて…」
私たちは女性の動きを真似して踊ってみた。最初はぎこちなかったが、だんだん慣れてきた。
不思議なことに、踊っていると心が落ち着いてくる。まるで神様と心が通じているような感覚だった。
「そうじゃ、その調子じゃ」
女性は嬉しそうに頷いた。
「この踊りには、山の神様への感謝の気持ちが込められている。豊かな自然の恵みへの感謝、村を守ってくださることへの感謝」
私たちは夢中になって神楽を踊った。太陽が傾き始めても、練習は続いた。
「もう十分じゃ」
女性が手を上げて練習を終わらせた。
「明日の祭りで、この神楽を村の人たちに見せてくれ」
「でも、私たち村の人じゃないし…」
ゆいが遠慮がちに言った。
「関係ない。大切なのは、心から神様に感謝することじゃ」
女性は本殿の方に歩いて行った。
「明日、必ず来るのじゃぞ」
そう言って、女性は本殿の中に消えていった。
私たちは夢を見ていたような気分で家に帰った。祖母に神楽を教わったことを話すと、驚いたような顔をした。
「それは不思議ね。神社には神主さんもいないし、神楽を舞える人なんていないはずなのに」
「でも、確かに教わったよ」
こうたが実際に踊りの一部を見せると、祖母はさらに驚いた。
「それは確かに昔の神楽ね。私が子供の頃に見たことがある」
翌日の夜、村の夏祭りが始まった。境内には提灯が並び、屋台も出ている。しかし、参加者は三十人ほどで、とても寂しい祭りだった。
村長さんの挨拶があり、簡単な神事が行われた。そして、いよいよ神楽の時間になった。
「今年は、神楽を舞う人がいなくて…」
困っている村長さんのもとに、私たちは名乗り出た。
「私たちが舞わせていただきます」
村の人たちは驚いたが、快く承諾してくれた。
私たちは昨日教わった神楽を舞い始めた。太鼓と笛の音に合わせて、心を込めて踊る。
最初は見ている人たちも戸惑っていたが、だんだん静寂に包まれていく。そして、何人かの年配の方が涙を流しているのに気づいた。
「懐かしい…昔の神楽と同じだ」
「美しいねえ」
神楽を舞っている間、私は不思議な感覚に包まれていた。まるで昨日の女性が一緒に踊っているような気がした。
踊りが終わると、大きな拍手が起こった。そして、今まで体調を崩していた村の人たちが、すっかり元気になっていることに気づいた。
「ありがとう。おかげで神様の怒りも解けたようだ」
村長さんが感謝の言葉を述べた。
祭りが終わった後、私たちは再び神社を訪れた。昨日の女性にお礼を言いたかったのだ。
しかし、境内は静まり返っており、女性の姿はなかった。
「あの人は誰だったんだろう」
ゆいが呟いた。
本殿の前に立つと、扉の隙間から光が漏れているのに気づいた。中を覗いてみると、神像の前に古い写真が供えられていた。
写真には、昭和初期と思われる村の祭りの様子が写っていた。そして、その中に昨日の女性とそっくりな人物が写っていた。
白い着物を着て神楽を舞う、若い女性の姿だった。
「もしかして、あの人は…」
私たちは写真をじっと見つめた。きっと昔この村で神楽を舞っていた人の霊だったのだろう。
村の祭りが廃れていくことを悲しみ、私たちに神楽を教えてくれたのだ。
翌朝、村を離れる時、祖母が教えてくれた。
「昨夜の神楽、本当に素晴らしかったわ。おかげで村に活気が戻ったみたい」
「村の人たち、元気になったんですね」
「ええ。それに、来年からまた盛大に祭りをやろうという話になったの」
私たちは安心した。神様も、あの女性も、きっと喜んでいるだろう。
バスの窓から村を眺めながら、私は心の中で祈った。
来年もこの祭りが続いていきますように。そして、神様への感謝の気持ちを忘れませんように。
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この体験談は、2019年8月に山梨県北杜市の山間集落で実際に起きた現象を基にしている。当時高校1年生だった3名の少年少女が、村の伝統祭祀において「神楽を舞う女性の霊」との遭遇を報告した事例である。
該当する集落では、室町時代から続く「山津見神社夏祭り」が毎年8月30日に開催されていたが、過疎化により2019年を最後に中止される予定だった。祭りの中核を担っていた神楽は、最後の舞い手である老女が2018年に他界したことで継承者が途絶えていた。
この年の祭りでは、準備期間中に複数の村民が原因不明の発熱と幻覚症状を訴え、地域の診療所では対応しきれない状況となっていた。患者の多くが「山の神が怒っている」という内容の幻聴を体験していたことが、後の聞き取り調査で判明している。
目撃証言によると、3名の高校生は祭り前日に神社境内で「江戸時代の巫女装束を着た女性」と遭遇し、約4時間にわたって神楽の指導を受けたという。この女性の特徴は、明治時代に神楽の名手として知られた「おみつ」という巫女の記録と酷似していた。
翌日の祭りで高校生たちが披露した神楽は、地元の古老たちも「戦前の型そのもの」と証言するほど正統的なものだった。特に注目すべきは、彼らが使用した舞の型が、1940年代に途絶えた「山津見五段神楽」の完全な復元だったことである。