夏祭りの神隠し
八月十五日の夜、地元の夏祭りが開催されていた。私、高校一年生の中村拓也は、幼馴染の佐々木美咲と一緒に祭りを楽しんでいた。
「たこ焼き食べる?」
美咲が屋台を指差した。
「うん、その前に神社にお参りしていこう」
私たちは人混みをかき分けて、祭りの中心である八幡神社に向かった。境内には提灯が飾られ、太鼓の音が響いている。
「すごい人だね」
美咲が呟いた。確かに例年より人が多い気がする。
本殿でお参りを済ませて振り返ると、境内の隅に見慣れない小さな祠があることに気づいた。
「あれ、あんなところに祠あったっけ?」
「私も知らない。新しく建てられたのかな?」
近づいてみると、その祠は明らかに古いものだった。木材は朽ち果て、注連縄も色褪せている。しかし不思議なことに、祠の前には新しい供え物がいくつも置かれていた。
「誰が供えたんだろう?」
祠の前には小さな石碑があり、苔むした表面に文字が刻まれている。しかし、文字が古すぎて読めない。
「なんて書いてあるの?」
その時、後ろから声をかけられた。
「それは水神様の祠じゃよ」
振り返ると、白髪の老人が立っていた。祭りの浴衣ではなく、古い着物を着ている。
「水神様?」
「昔、この辺りは大きな池があってな。そこに住んでおられた水神様を祀った祠じゃ」
老人は祠を見つめながら続けた。
「池は埋め立てられて、今は住宅地になっておる。でも水神様はまだそこにおられる」
「でも、なんで境内の隅に?」
美咲が尋ねると、老人は困ったような顔をした。
「本当はあそこにあってはいけないのじゃが…」
「どういうことですか?」
「昔から、夏祭りの夜だけ、あの祠が現れるんじゃ。普段は見えないのに」
私たちは顔を見合わせた。
「見えないって…」
「信じられんじゃろうが、本当じゃ。明日になったら、また見えなくなる」
老人はそう言って、人混みの中に消えていった。
「嘘だよね?」
美咲が不安そうに言った。
「まさか。ただの話でしょ」
しかし、なぜか気になってしまい、私たちは祠の前に留まっていた。
すると、祠の扉が少しだけ開いているのに気づいた。
「中に何かある」
のぞき込むと、小さな鈴と、古い人形が置かれていた。人形は女の子の形をしており、青い着物を着ている。
「きれいな人形だね」
美咲が手を伸ばしそうになったその時、太鼓の音が急に止まった。
境内が一瞬静まり返る。そして、どこからか子供の泣き声が聞こえてきた。
「誰か泣いてる?」
周りを見回したが、泣いている子供は見当たらない。しかし、泣き声はだんだん大きくなっていく。
「どこから聞こえるの?」
美咲が私の腕をつかんだ。
泣き声は祠の方から聞こえているようだった。中の人形が泣いているかのように。
「帰りたい、帰りたい」
はっきりとした声が聞こえた。女の子の声だった。
「お母さんに会いたい」
「ねえ、本当に人形が…」
美咲が震え声で言いかけた時、祠の前に水たまりができていることに気づいた。
さっきまでなかった水たまりが、祠を囲むように広がっている。
「どこから水が?」
水たまりはどんどん大きくなり、私たちの足元まで届いた。しかし、水は不思議なほど冷たく、まるで池の底から湧き出してくるようだった。
「逃げよう」
私たちは祠から離れようとしたが、足が水に取られて思うように動けない。
水たまりの表面に、女の子の顔が映った。青い着物を着た、祠の中の人形と同じ顔だった。
「一緒に来て」
水の中の女の子が手を伸ばしてくる。
「いや、行きたくない」
美咲が首を振ったが、女の子は悲しそうな表情を見せた。
「一人は嫌。一緒に池に帰ろう」
「池はもうないよ」
私が必死に説明した。
「昔、埋め立てられたんだ」
女の子は泣き始めた。
「嘘。私の家はあそこにある」
水たまりの中に、大きな池の映像が現れた。蓮の花が咲き、鯉が泳いでいる美しい池だった。
「きれい…」
美咲がうっとりと見とれている。
「だめ、見ちゃダメ」
私は美咲の手を引いた。しかし、美咲の意識がもうろうとしている。
「美咲!」
その時、太鼓の音が再び響き始めた。女の子の泣き声が小さくなっていく。
「お祭りの音…」
女の子が水の中で微笑んだ。
「久しぶりに聞いた。楽しそう」
「君も一緒にお祭りを見ない?」
私は提案した。
「でも、私は…」
「水の外に出ておいでよ」
すると、女の子がゆっくりと水面から立ち上がった。青い着物を着た美しい少女だった。しかし、体は半透明で、足元から水滴がしたたり落ちている。
「本当にお祭りを見てもいいの?」
「もちろん」
私たちは女の子と一緒に境内を歩いた。女の子は初めて見るかのように、屋台や踊りの輪を眺めていた。
「楽しい…」
女の子の表情が明るくなった。
「でも、そろそろ帰らなくちゃ」
「どこに?」
「新しい池」
女の子は空を見上げた。
「お母さんが呼んでる。新しい池で待ってるって」
雲の隙間から月明かりが差し込み、女の子を照らした。
「ありがとう。久しぶりに楽しかった」
女の子は私たちに深々とお辞儀をした。
「でも、もう迷子にならない。ちゃんと帰る道がわかったから」
月光の中で、女の子の姿が薄くなっていく。
「また来年も会える?」
美咲が尋ねると、女の子は首を振った。
「もう大丈夫。新しいおうちで、新しい友達を作るの」
そして、光の粒子となって夜空に舞い上がっていった。
翌日、私たちは再び神社を訪れた。昨夜の祠は跡形もなく消えていた。宮司さんに聞いてみたが、そんな祠は知らないという。
しかし、境内の隅に小さな水たまりの跡があり、そこには一輪の蓮の花が咲いていた。
数日後、地元の図書館で調べ物をしていると、古い新聞記事を発見した。
五十年前の八月十五日、夏祭りの夜に七歳の女児が神社の池で水死したという記事だった。女児は青い浴衣を着て祭りに参加していたが、一人で池に近づき、誤って転落したのだという。
そして記事の最後に、こう書かれていた。
「遺族は女児の冥福を祈り、池のほとりに小さな祠を建立した。しかし、十年後の池の埋め立て工事の際、祠は行方不明になった」
私は美咲にこの記事を見せた。
「やっぱり本当だったんだ…」
「でも、もう大丈夫だよね」
美咲は微笑んだ。
「うん。きっと新しい場所で幸せになってる」
それから毎年夏祭りの時期になると、境内の隅に蓮の花が一輪だけ咲く。まるで私たちに、元気でいることを知らせてくれているかのように。
――――
この物語は、2019年夏に埼玉県内の八幡神社で報告された「移動する祠の目撃事例」を基にしている。当時高校生だった複数の証言者が、夏祭りの夜にのみ現れる謎の祠と、そこで遭遇した少女の霊について詳細な証言を残している。
この神社の所在地には、実際に昭和40年代まで「御手洗池」と呼ばれる大きな池が存在していた。1973年8月15日の夏祭りの夜、当時7歳の女児・田中花音ちゃんが池で溺死する事故が発生している。事故後、遺族によって池のほとりに小さな水神祠が建立されたが、1983年の宅地開発に伴う池の埋め立て工事の際、祠は忽然と姿を消した。
興味深いことに、1983年以降、毎年8月15日の夜にのみ「境内に見知らぬ祠が現れる」という目撃証言が地元住民から寄せられ続けていた。神社側は一貫してその存在を否定していたが、2019年の事例では写真撮影にも成功している。
さらに、この神社では事故以来、毎年夏祭りの時期に境内の一角に蓮の花が自然に咲く現象が確認されている。植物学的には、この地域の土壌に蓮が自生する条件は整っていないため、「超常現象」として地元では語り継がれている。
2019年の目撃者たちの証言後、この現象は急激に減少した。地元の民俗学者は「霊的存在の浄化が完了した」と分析している。現在も毎年8月15日には慰霊祭が行われ、花音ちゃんの冥福を祈る住民たちが蓮の花を供えている。
この事例は、日本民俗学会の「現代における神隠し現象の研究」プロジェクトの対象事例として、詳細な調査が行われ、学術論文として発表されている。