山神の花嫁
八月の盆休み、私は祖父母の家がある奥飛騨の山村を訪れていた。高校三年生の夏、受験勉強に疲れた私にとって、この静寂な山里は格好の避暑地だった。
「恵太、山に入るときは気をつけるんだよ」
祖母が心配そうに言った。
「なんで?」
「この時期は山神様が荒ぶる季節なんだ。特に若い娘を連れて行きたがる」
私は苦笑いした。平成の世に、まだそんな迷信を信じているのかと思った。
翌日、幼なじみの美咲が遊びに来た。彼女は同い年だが、東京の私立高校に通っていて、久しぶりの再会だった。
「恵太、山登りしない?写真部の課題で、自然の写真を撮らないといけないの」
美咲はカメラを片手に提案した。
「いいけど、おばあちゃんが山神がどうとか言ってたから、あまり奥まで行かない方がいいかも」
「山神?面白いじゃない。もし会えたら写真撮っちゃおう」
美咲は笑って答えた。
私たちは裏山の登山道を歩き始めた。八月の陽射しは強かったが、山の中は涼しく、セミの声が響いていた。
「きれい!」
美咲は山野草や渓流の写真を撮りながら歩いた。
一時間ほど登ったところに、古い石の鳥居があった。鳥居の奥には小さな祠が見える。
「何の神社?」
「山神社って書いてある」
鳥居の横に立つ古い石碑を読み上げた。文字が風化していて読みにくい。
「せっかくだから、お参りしていこうよ」
美咲は鳥居をくぐって祠に向かった。私も後に続いた。
祠は思っていたより立派で、彫刻が施された木造の建物だった。しかし、どこか不気味な雰囲気があった。
「何かお供え物があるよ」
美咲が祠の前を見て言った。
見ると、白い花や果物、酒の瓶などが供えられていた。しかし、それらはどれも新しく、つい最近供えられたもののようだった。
「誰が供えたんだろう?こんな山奥なのに」
「地元の人たちが定期的に来るんじゃない?」
私たちは手を合わせて拝んだ。その時、山風が吹いて、祠の鈴がチリンと鳴った。
「写真撮っていい?」
美咲がカメラを構えた瞬間、ファインダーの中に奇妙なものが映った。
「えっ?」
美咲が困惑した表情を見せた。
「どうしたの?」
「祠の前に、白い着物を着た女の人が見えるんだけど…」
私は祠を見たが、誰もいなかった。
「どこに?」
「カメラ越しだと見えるの。すごくきれいな人」
美咲がカメラを私に渡した。ファインダーを覗くと、確かに白無垢の花嫁衣装を着た美しい女性が祠の前に立っていた。
「うわっ!」
私は思わずカメラを下ろした。肉眼では何も見えない。
「見えた?」
「見えたけど…何これ?」
再びファインダーを覗くと、女性はこちらを見て微笑んでいた。その笑顔は美しいが、なぜか背筋が寒くなった。
「シャッター切ってみたら?」
美咲に促されて、私は写真を撮った。カシャッという音と共に、山に静寂が戻った。
「液晶で確認してみて」
撮った写真を見ると、祠だけが映っており、女性の姿はなかった。
「消えちゃった…」
「やっぱり霊的な存在だったのかな」
美咲が興味深そうに言った。
その時、突然山道の下から太鼓の音が聞こえてきた。ドンドンという単調なリズムだった。
「お祭り?」
「でも、この辺りにお祭りなんてあったっけ?」
太鼓の音はだんだん近づいてくる。私たちは山道を見下ろしたが、誰の姿も見えない。
「帰ろうか」
なんとなく不安になり、私は美咲に提案した。
「うん、そうね」
私たちは山を下り始めた。しかし、太鼓の音は私たちについてくるように響き続けた。
しかも、いつの間にか笛の音も加わっていた。お囃子のような音色だった。
「恵太、後ろ見て」
美咲が震え声で言った。
振り返ると、山道の上に人影がいくつも見えた。白い着物を着た人たちが列を成して歩いている。
「結婚式の行列?」
よく見ると、先頭には角隠しを付けた花嫁が歩いている。その後ろに、紋付き袴の男性や、着物姿の参列者が続いていた。
「でも、なんで山の中で?」
私たちは立ち止まって見ていた。行列は私たちの前を素通りしていく。
花嫁が私たちの横を通る時、顔を向けた。それは先ほどカメラで見た女性だった。
「あの人、さっきの…」
美咲が息を呑んだ。
花嫁は私たちを見つめながら、口を動かした。声は聞こえないが、口の形から何かを言っているのがわかった。
「たすけて」
そう言っているように見えた。
行列が通り過ぎると、太鼓と笛の音も遠ざかっていった。
「今のは何だったの?」
美咲が青ざめていた。
「わからない…でも、早く山を降りよう」
私たちは急いで下山した。祖父母の家に戻ると、祖母が心配そうに迎えてくれた。
「どうしたんだい?顔が青いよ」
私は山神社で起きたことを話した。祖母の表情がみるみる暗くなった。
「それは…山神様の花嫁行列だ」
「花嫁行列?」
「昔から語り継がれている話なんだ。山神様は美しい娘を嫁に欲しがる。そして、選んだ娘を神隠しにあわせて、永遠に山の嫁にするんだ」
祖母の話では、この村では昔から若い女性の神隠しが多発していたという。特に盆の時期に山に入った女性が、忽然と姿を消すのだという。
「でも、私たちは無事に帰ってきたよ」
美咲が言った。
「それは山神様がまだ決めかねているからかもしれない」
祖母は深刻な表情で続けた。
「もし山神様に選ばれたら、七日以内に再び山に呼ばれる。その時に山に入ってしまったら、もう二度と戻れない」
私と美咲は顔を見合わせた。
その夜、美咲は実家に帰った。翌日から、奇妙な現象が続いた。
夜中に外から笛の音が聞こえる。窓から見ると、山の方向に明かりが見える。そして、誰かが私の名前を呼ぶ声がする。
三日目の夜、美咲から電話があった。
「恵太、私も同じような現象が起きてる。夜中に外から太鼓の音が聞こえるの」
「やっぱり…」
「それに、夢も見るの。白い着物の女の人が、山においでって言うの」
私も同じ夢を見ていた。あの花嫁が手招きして、山神社に来るよう促すのだ。
四日目の朝、美咲が慌てて家にやってきた。
「大変よ、恵太!写真を現像したら…」
美咲が写真を見せた。山神社で撮った写真だった。
写真には、祠の前で私たちが手を合わせている姿が映っていた。しかし、私の隣には美咲ではなく、白い花嫁衣装を着た女性が写っていた。
「これ、私じゃない…」
美咲が震えながら言った。
「山神様が美咲を花嫁に選んだんだ」
私は理解した。あの花嫁は「助けて」と言っていたのではない。「代わりに」と言っていたのかもしれない。
その夜、美咲の家から連絡があった。美咲が忽然と姿を消したのだ。
私は祖父と村の人たちと一緒に山を捜索した。山神社に着くと、祠の前に美咲の靴が脱ぎ揃えて置いてあった。
「美咲!」
いくら呼んでも返事はない。
その時、祠の中から声が聞こえた。
「もう遅い」
老人の声だった。
「山神様は花嫁を迎えた。彼女は今、神の妻として永遠にここに住む」
「美咲を返してくれ!」
私は祠に向かって叫んだ。
「代わりなら受け入れる。他に美しい娘を連れてくるか、お前が花婿になるか」
「僕が花婿に?」
「そうだ。お前がここに残るなら、娘を解放しよう」
私は迷わず答えた。
「わかった。美咲を解放してくれるなら、僕が代わりになる」
祠が光り、中から美咲が現れた。しかし、彼女の目は虚ろだった。
「美咲!」
「恵太…私、何をしていたの?」
「大丈夫、もう終わったから」
私は美咲を村の人たちに託した。
「約束は守る。お前を迎えに来る日を楽しみにしている」
山神の声が響いた。
それから一週間後、私は再び山神社を訪れた。今度は一人で。
祠の前に立つと、白い霧が立ち込めた。霧の中から、立派な神主の格好をした老人が現れた。
「よく来た。約束通り、お前をわしの娘婿にしよう」
「美咲は本当に自由になったんですか?」
「もちろんだ。もう彼女に災いは降りかからない」
私はほっとした。美咲を救えるなら、自分がどうなってもかまわなかった。
「ただし」
山神が続けた。
「お前には選択を与えよう。このまま神となって山を守るか、それとも人間のまま下界に戻るか」
「どちらを選んでも、美咲は大丈夫なんですね?」
「そうだ。お前の心意気に免じて、特別に許可しよう」
私は考えた。そして、決断した。
「人間のまま帰らせてください。でも、約束します。この山を大切にし、山神様を敬うことを」
山神は微笑んだ。
「よい答えだ。お前のような若者がいれば、この山も安泰だ」
霧が晴れると、私は山道に一人で立っていた。
美咲は無事に東京に戻り、大学に進学した。私も地元の大学に進み、卒業後は村役場に勤めて、山の管理に携わっている。
あれから五年が経った今でも、毎年盆の時期には山神社に参拝している。そして、観光客には必ず注意している。
「一人で山に入らないでください。特に女性の方は気をつけて」
山神様は今も山を見守っている。そして、時として人間と交流することもある。大切なのは、敬意を持って接することだ。
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この物語は、2019年8月に岐阜県飛騨地方で発生した神隠し事件を基にしている。当時18歳の女子高生が、友人と登山中に行方不明となり、3日後に約10キロ離れた山中で発見された事例だ。
発見時、女子高生は「白い着物を着た女性に連れられて山を歩いていた」「結婚式のような行列を見た」と証言したが、同行していた男子高生の証言と一致する部分が多数あったため、地元警察も困惑した。
この地域は古くから「山神信仰」が根強く、江戸時代から明治時代にかけて若い女性の神隠し事件が多数記録されている。特に興味深いのは、1923年(大正12年)の事件で、16歳の女性が行方不明になった際、捜索隊が山中で「結婚行列のような白装束の集団」を目撃したという記録が残っている。