墓参りの約束
高校二年の夏休み、私は父と一緒に田舎の墓地にいた。毎年恒例の墓参りだが、今年は母が入院中のため、父と二人だけの墓参りとなった。
「健太、お前も来年は受験で忙しくなるから、しっかりとご先祖様にお参りしておけよ」
父はそう言いながら、古い墓石に水をかけて清めていた。我が家の墓は山の中腹にある古い墓地の一角にあり、江戸時代から続く先祖代々の墓だった。
墓地全体は相当古く、中には読めないほど風化した墓石もある。この日も真夏の強い陽射しが照りつけていたが、木々に囲まれた墓地は薄暗く、どこか涼しさを感じさせた。
「お父さん、この墓地って何か変な噂とかない?」
掃除をしながら何気なく尋ねた。というのも、この墓地に来るたびに妙な違和感を覚えていたからだ。特に一人で来た時は、視線を感じることが多かった。
「変な噂?」父は手を止めて考え込んだ。「そういえば昔、祖父から聞いた話があるな」
父の話によると、この墓地では昔から「約束を果たしに来る霊」の話があるという。生前に果たせなかった約束や、言えなかった言葉を伝えるために、お盆の時期になると現れるのだそうだ。
「でも、それって良い話じゃない?」
「そうでもないらしいぞ。中には生者を巻き込んで、無理やり約束を果たそうとする霊もいるらしい」
父の話を聞きながら、私は墓地の奥を見つめた。古い墓石が立ち並ぶ向こうに、小さな祠のようなものが見えた。
「あの祠は何?」
「ああ、あれは無縁仏を祀ったものだ。家族のいない霊や、身元不明の霊を供養している」
墓参りを終えて帰る途中、私は何度か振り返った。誰かに見送られているような気がしてならなかった。
その夜、私は奇妙な夢を見た。
昼間訪れた墓地にいる夢だった。しかし昼間とは違い、夜の墓地は月明かりに青白く照らされていた。私は一人で墓石の間を歩いていた。
すると、無縁仏の祠の前に人影が立っているのが見えた。白い着物を着た若い女性だった。彼女は私を見つけると、手招きをした。
「あの…」
声をかけようとしたが、女性は祠の陰に消えてしまった。追いかけようとしたところで目が覚めた。
翌日、私は一人で再び墓地を訪れた。昨夜の夢が気になって仕方がなかったのだ。
墓地に着くと、管理人らしき老人が掃除をしていた。
「こんにちは。昨日も来ましたっけ?」
老人は私を覚えていたようだった。
「はい。ところで、この墓地で変わった話とか聞いたことありますか?」
老人は箒を止めて、私をじっと見つめた。
「変わった話?」
「霊の話とか…」
「ああ、そういうことね」老人は苦笑いした。「実はな、最近妙なことが続いてるんだ」
老人の話では、この夏に入ってから、墓参りに来た人が「知らない女性に声をかけられた」という報告が相次いでいるという。
「どんな女性ですか?」
「白い着物を着た若い女の人らしい。『約束を覚えているか』って聞いてくるんだと」
私の背筋に寒気が走った。昨夜の夢の女性と一致する。
「でも、皆『知らない』って答えるんだ。そうすると、その女性は悲しそうな顔をして消えてしまうらしい」
老人はさらに続けた。
「実はな、三十年ぐらい前にこの近くで若い女性が亡くなる事件があったんだ。恋人との心中事件だった」
「心中事件?」
「ああ、でも女性だけが死んで、男性は助かった。女性は『必ず一緒に死ぬ』と約束していたのに、男性は約束を破ったんだ」
「それで、その女性がここに?」
「身元はわかっていたが、遺族が引き取りを拒否してな。結局、無縁仏として埋葬されたんだ」
私は無縁仏の祠を見つめた。昨夜の夢で女性が立っていた場所だった。
「その心中事件の男性は、今どうしているんですか?」
「さあな。事件の後、この土地からいなくなったきり消息不明だ」
その日の夕方、私は再び墓地にいた。なぜか足が向いてしまうのだ。夕暮れ時の墓地は昼間以上に静寂に包まれていた。
無縁仏の祠に手を合わせて祈っていると、後ろから声がした。
「約束を覚えているか?」
振り返ると、白い着物を着た若い女性が立っていた。夢で見た女性と同じ人だった。顔は美しいが、どこか悲しげな表情をしている。
「あの、僕はあなたのことを知らないんですが…」
「そんなはずはない。あなたは約束したではないか」
女性の目に涙が浮かんでいた。
「必ず一緒にいると。必ず迎えに来ると」
私は混乱した。確かにそんな約束をした覚えはない。
「僕じゃない人と間違えているんじゃないですか?」
「いいえ、あなたよ。顔は少し変わったけれど、魂は同じ」
女性は私に近づいてきた。その瞬間、私の頭に映像が浮かんだ。
三十年前の夏。若い男女が海辺で抱き合っている。「必ず一緒に死のう」「君を一人にはしない」そんな会話が聞こえた。そして、崖から飛び降りる瞬間—。
「思い出しましたね」
女性は微笑んだ。しかしその笑顔は恐ろしく歪んでいた。
「あなたは約束を破った。私だけ死んで、あなたは逃げた」
「でも、僕はそんなことしてません!」
「魂は嘘をつけない。あなたの中に、あの人の魂がある」
女性の姿が急に変わった。着物は血で染まり、顔は青白く、首には紐で絞められたような痣があった。
「一緒に来てください。約束を果たしましょう」
女性は私の手を掴んだ。その手は氷のように冷たかった。
「でも僕は田中健太です!心中なんてしてません!」
「田中?」女性の表情が変わった。「あの人は…山田だった」
女性の手から力が抜けた。
「違うの?でも魂が似ている…」
私は必死に考えた。そして父から聞いた家系のことを思い出した。
「もしかして、山田さんって僕の親戚かもしれません。父の話では、昔親戚に山田姓の人がいたって」
女性は困惑した表情を見せた。
「親戚…血筋が近いと魂も似る」
「その山田さんは、本当に約束を破ったんですか?」
女性は悲しそうに頷いた。
「崖から落ちる時、私の手を離したの。そして自分だけ岩に掴まって助かった」
「でも、もしかしたら彼も後悔していたかもしれませんよ」
「後悔?」
「約束を破ったこと、あなたを見捨てたこと。きっと一生苦しんでいたと思います」
女性の目から大粒の涙がこぼれた。
「許してあげませんか?もう三十年も経ったんです。彼を恨み続けても、あなたも彼も救われない」
私は震えながらも、女性に向かって続けた。
「僕が代わりに謝ります。あなたを裏切って、本当にごめんなさい」
その瞬間、女性の姿がぼんやりと光り始めた。
「代わりに…謝ってくれるの?」
「はい。だから、もう恨むのをやめてください」
女性は長い間私を見つめていたが、やがて微笑んだ。今度は歪んでいない、本当に美しい笑顔だった。
「ありがとう。やっと…楽になれる」
女性の姿が次第に透明になっていく。
「彼によろしく伝えて。許したと」
「山田さんはもう亡くなっているかもしれませんが…」
「構いません。魂は永遠ですから」
女性は完全に姿を消した。後には夏の夜風だけが残った。
翌日、私は父にこのことを話した。父は驚いた表情を見せた。
「山田?確かに母方の親戚に山田という家があったな。でも三十年以上前に縁が切れて…」
父が古い住所録を調べると、山田という親戚が確かに存在していたことがわかった。そして驚くべきことに、その人物は五年前に亡くなっていた。
「死因は何だったかな…」父は考え込んだ。「確か自殺だったと思う」
私はその話を聞いて、すべてが繋がったような気がした。山田さんは結局、約束を破った罪悪感に耐えられず、最後は自らの命を絶ったのかもしれない。
それから数日後、私は再び墓地を訪れた。無縁仏の祠には新しい花が供えられていた。管理人の老人によると、どこの誰が供えたのかわからないという。
「でも、あの女性の目撃談はもうないよ」老人は言った。「きっと成仏したんだろう」
私も祠に手を合わせた。もう二度と彼女に会うことはないだろうが、彼女が安らかに眠れていることを祈った。
あの夏の体験から三年が経った今でも、私は毎年必ず墓参りに行く。そして必ず無縁仏の祠にも手を合わせる。生者と死者の間にある約束というものの重さを、私は身をもって知ったからだ。
時には、約束を破ってしまうこともある。しかしその時は、相手に許しを求める勇気を持ちたい。そして自分も、他人の過ちを許せる心を持ちたい。死者となってまで約束に縛られることほど、悲しいことはないのだから。
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この物語は、1993年に静岡県伊豆半島で実際に起きた事件を基にしている。当時、熱海市内の墓地で「白い着物の女性に話しかけられる」という目撃談が相次ぎ、地元で話題となった。
目撃者の証言によると、女性は墓参りに来た人々に「約束を覚えているか」と尋ね、「知らない」と答えられると悲しそうに消えたという。特に中年男性への接触が多く、一時は墓地の管理事務所に相談が殺到した。
調査の結果、この現象は1963年に起きた心中事件と関連があることが判明した。当時21歳の女性と24歳の男性が崖から投身自殺を図ったが、女性だけが死亡し、男性は奇跡的に助かった。しかし男性は事件後に行方不明となり、女性の遺体は身元が判明していたものの、遺族の事情で無縁仏として埋葬されていた。
1993年の霊的現象が始まる直前、この心中事件の生存者である男性が自殺していたことが後に判明した。男性は30年間、罪悪感に苛まれていたとみられ、遺書には「彼女に会いに行く」と書かれていた。
興味深いことに、この霊的現象は男性の死後約1か月で始まり、約3か月間続いた後、突然終息した。最後の目撃例では、「女性が満足そうに微笑んで消えた」という証言が残されている。
民俗学者は、この事例を「未完の約束による霊的な執着」の典型例として研究対象とした。生前に果たせなかった約束や、言えなかった言葉が霊となって現世に留まるという現象は、日本全国で類似例が報告されている。